Monthly Archives: 1月 2019

紛らわしい中国の10Aと16Aの三又電源プラグ

 上海滞在10年を超えて、最近ようやく気が付いたことがある。
実は、中国で使われている三又の電源プラグには2種類存在していたようである。
 見た目にはほとんど同じなので、気が付かなかったのだが、というか一方の器具に接する機会がほとんど無かったので、その存在に気が付かなかったのである。

 以前、「中国の電源コンセントは何でもアリ?」で全て勉強したつもりだったが、それ以外にもプラグとコンセントに別の電気規格があったのである。
 
この2種類は電気規格による種別が別のようで、10Aのものと16Aのものがある。
ぱっと見はほとんど形状が一緒だが、実際に差し込んでみると差し込めず互換関係がないことに気が付く。

16Aのプラグ

10Aのプラグ

 中国の百度で調べて見ると、10Aのプラグの歯の幅が約8㎜、16Aの幅は約10mmとなっている。
 また器具の規定値は250V /10Aは最大効率が2200wと、16Aが250V /16Aが 最大効率が3500Wとなっているようだ。
 普段家庭用に普及しているのは10Aの方で、私は長い間こちらの方しか知らなかった。

10Aのコンセント

 16Aも一応家庭に使われるが、エアコンとか電気温水器とか電気消費量が大きい家電用のプラグ仕様となっているようである。
 実は何年か前にも三又プラグの大きさが合わないことがあって、単に製造精度が悪いだけなんじゃないかと思ったことがあったが、今頃になってようやくあの時の不整合は規格違いであることに気が付いたのである。

16Aのコンセント

 それ故に、ネットショッピングなどでこれらの電源器具を買う際には、写真だけでなく表示上の規格をよく見てから買わないと無駄な買い物をすることになりかねないのである。
 日本人で自分で電源器具を買う方は少ないかもしれないが、ぜひお気をつけ下さい。

第九の第3楽章の味わい

 日本では年末師走の風物詩として当たり前すぎるほどにその名が知れ渡っている「ベートーベンの第九」だが、ここ上海でも徐々に演奏回数が増えてきているような印象である。

 10年前に第九の習慣のない中国で書いた通り、そもそも中国では第九の演奏は少なかったが、今年は暮れの音楽界のプログラムの中にちらほらと第九の名前が散見されるようになってきた。

私も昨年はその流れに乗って、先日の大みそかに第九を聴いて一年を締めた。(楽章ごとに拍手が起きる聴衆環境だったが・・・)

第九コンサートの看板

 と思っていたら、今度は今週の土曜日に日本人奏者や合唱団が大勢参加する「第九」が開催されるようで、私も慌ててチケットを手に入れた。

まあ彼らはオケも合唱もアマチュアの寄せ集め所帯なのだが、第九が浸透している日本人が大半を占めるようなので、そこそこの演奏にはなるのではないかと期待している。

 ところで、第九と言えば合唱を伴う第4楽章が圧倒的に有名だが、交響曲であるからには第1楽章から第3楽章までもきちんと存在し、音楽の作曲理念から言えば、開始から終わりに向かって一つの流れがあって、繋がっていることに意味があるのであり、第4楽章だけ聴けばいいというものではない。

 この 第九の各楽章のイメージは「チェリビダッケの第九」でも書いたが私は下記のようなイメージで捉えている。(前回より若干修正)

 第1楽章は、恐る恐る勇気を持って踏み出し壁にぶつかりながら開拓する精神

 第2楽章は、試行錯誤の中、大きな夢への希望の道筋を感じつつ進む喜びと苦労の時間

 第3楽章は、ふと立ち止まり、迷いの中、自分の内面と向き合い思慮にふける時間。

 第4楽章は、迷いが消えて夢の実現にまっすぐ進み希望の喜びがふつふつとわきあがる。
そして苦労を共にした仲間と喜びの宴、最後はどんちゃん騒ぎへ 。

 このうち第3楽章のアダージョは、実に優しい曲である。

 人によっては怠惰な冗長な楽章と評価する向きもあるようだが、第3楽章は第1第2楽章で力が入っていた状態から、ふっと肩の力を抜いて、自分の歩んできた道や自分自身の内面を迷いながらゆっくりと顧みる時間を与えてくれる音楽である。

 苦しかった時間や迷っていた時間などを思い出しつつ、あれこれや考えていくうちに、心の迷いが整理されて行き、徐々に心が一つの方向へ集約されていく効果がある。

 そして心の迷いが消えた状態で第3楽章が終わり、第4楽章で心身ともに力強く再度立ち上がり再び前へ動き始める音楽となり、いわゆる「心が決まった状態 」 になる。

このように第3楽章は心の浄化作用ともいうべき優しさがあり、メロディに心と身を預けることによって、心の迷いや苦しさを音楽が優しく慰めじっくりと自分の日常やそれまでの時間を思い出させてくれるのである。

 そしてこういった自分への振り返りがあって、初めて「心が決まって」第4楽章の喜びの爆発に繋がる。

 逆に第1第2楽章での苦悩があってこそ、第3楽章の振り返りが意味を持つ面もあって、いきなり前提(第1第2楽章)もなしに、振り返りの時間を持っても何も出て来ないのである。

この第九の第3楽章は、後にアダージョの大家(たいか)と評されるブルックナーが参考にしたとされるほど、深い隠れた名曲であり、第九に足を運ばれる方は合唱楽章の前の退屈な時間などと思わずにじっくりと心を預けて聴いてほしいと思っている。

上海の大気汚染は改善しているのか?

 この冬に入ってから、どんよりとした天候が続いており太陽の姿を忘れてしまったかのような日々が続いている。

 大陸特有の底冷えもあり、気分的にもすっきりしない、

日本の日本海側がこんな気候なのかなとも想像するが、雪はそれほど降らない。

こんな気候が続く上海ではあるが、今年はあまり大気汚染の話題は表に出て来ない。

そういえば、街の空気が真っ白になることも少なく、昨年や一昨年よりも霞がかかる日の割合や濃さが減った気がする。

リアルタイム表示をしてくれるサイトでAQI指数をチェックすると55となっており、ものすごく綺麗な状態とは言えないが、かなりまともな状態であり、昨年以前に200とか300とかの数字が出ていたことを考えるとかなり改善したようである。

中国サイトの上海AQI指数

中国や上海政府はここ数年ほど大気汚染対策にはかなり気を使っており、内陸部の火力発電所の改造や廃止、エコ自動車の推進、その他街の焚火に至るまでかなり細かく対策はとってきている。

この大気汚染状況の改善は、その努力が功を奏したようにも見える。

ところがである。

これとは別の、上海のアメリカ総領事館のサイトが発表している観測データによるとほぼ同じ時間のAQI指数が113となっており、中国基準の発表値の2倍もある。

米国上海総領事館のAQI指数

上海市内のそのほかの観測点も軒並み100を超えている。

何故こんなことが起きるのだろうか?

中国側がデータねつ造しているのであろうか?

実はこの2つの違いは両国の環境基準の違いにある。

つまり同じ両国とも「AQI」という略称を使った指数であるが、その算出の基準となる根拠が全く違う評価を使っているということになる。

例えばPM2.5の物質について、アメリカの基準でいう1~50の指数の表わす範囲は、0.0 – 15.4㎍/㎥、同様に51~100の指数の示す範囲は15.5 – 40.4 ㎍/㎥となる。

これに対して中国の基準の場合は1~50の指す範囲は0.0 – 35㎍/㎥、同様に51~100の指数の示す範囲は35 -70㎍/㎥となる。

具体的な指数を算出する算式は省略するが、例えばPM2.5の観測値が50㎍/㎥だった場合、アメリカ式の場合は指数が120となるが、中国式の場合は71と表示されてしまうのである。

つまりどちらかが数字をごまかしているわけではなく、それぞれ正確なデータを示してはいるものの、指数の基準が違うということになる。

しかしながら、やはり中国式の大気汚染基準指数の方が緩いということになり、アメリカ式基準で見たければ、中国で表示されるAQI指数の1.5~2倍くらいした数値であることを理解して数字を受け取る必要がある。

いずれにしても、ちょっと前に比べれば中国の大気汚染状態はかなり改善されてきている状態ではあるものの、まだ欧米並みに完全に安心できる状態ではないということのようである。

昭和とか平成とか

 今年は日本の元号が変わることが決まっているが、そのおかげで昨年から平成最後の○○などという言葉が沢山飛び交うようになった。


 既に中国に来て10年以上が過ぎているこちらにとっては和暦を使うこと自体が少ないので、平成最後といわれても実はあまりピンとこない。
 それと、自分自身が昭和生まれということもあって、根っこが昭和にある意識が強く平成という元号にあまり愛着を持たないというのもある。


 とはいえ昭和から平成に切り替わったのは私が高校生の時であるため、私の生きてきた時間の中では昭和より平成の時間の方が上回ってしまっている。
 また就職したのも平成の世であり、私が微力ながら社会で行動したのは完全に平成の時代ということになる。
 これが例えば私が作曲家などであれば、私が作った音楽は平成の音楽として扱われてしまうということになるが、それは自分の意識の中では結構違和感があることになる。

昭和の広告

やはり自分のアイデンティティの根っこは昭和にあると思っているので、例え古いと言われようが「あなたは昭和の発想だね」と言われた方がしっくりくるのである。
 こうやって考えていくと、かつて「昭和の○○」などと言われた人も、実は生まれた時代によっては意識の根っこは大正だったり明治だったりする可能性もあり、表に出てきた時期だけを捉えて評価をしてはいけないということになる気がする。

 確かに年代は○○時代と年号で区切っていくけれど、そこに生きていく人の人生は幅を持って時代を跨いでいくわけであり、必要以上に外から区切りをつけるのは意味がないのではないだろうか。

 そんなことを考えた改元を迎える年の初めである。

上海で(運が良ければ)コンサートチケットを半額以下で買える方法

 一昨年くらいから上海において、コンサート通いを復活させ始めているが、クラシックのコンサートのチケットは決して安くはない。

 まあたまに20元とか30元とかで聴けるコンサートもないわけではないが、大体が最低でも1回180元くらいの出費となる。

 私などは席の位置にこだわらないし、コンサートホールの響きの中に身を置いて、生の演奏に接することが出来れば満足な人間なので、どんなに端っこの方でも構わないのだが、そんな席でさえ100元以下が設定されていることは滅多にない。

 しかも月1回程度の出費なら止むを得ないが、それではなかなか物足りなくなってくるので月2~3回通うことになり、その分だけチケット代が嵩んでくる。

 これらをもっと安く済ませる方法を探していたところ、運が良ければチケット代が半額以下になる可能性のある方法を見つけた。

 それは、2次チケットエージェントを通して買う方法である。

 中国には「摩天輪」や「票牛」などのサイトなりアプリなどのチケットサイトがある。

票牛のスマホサイト

 これらのサイトでは、公式サイトではSOLDOUTになったようなコンサートでもチケットを扱っていたりするので私も時々覗いている。

 このサイト、人気の公演などではチケットは残っていても、金額が上乗せされているような状態になっており、いわゆる日本のオークションサイトのような状態になっている。

 ただ、逆にそれほど人気のない公演だったりすると、販売額が額面割れしているような場合もあり、運が良ければ額面の半額以下になっているようなこともある。

 先日も、この票牛のサイトで、上海フィルの公演について額面が380元のチケットを、135元で手に入れて聴くことが出来た。

 完全に半額以下である。

 まぁ、ここまで安くなっていることは滅多にないのではあるが、額面より1~2割安くなっている公演は結構見かけるので、こういったシステムを利用すると、コンサートチケットを安く手に入れられるし、運が良ければ半額以下になる場合もあるのである。

票牛の購入画面

 支払いは微信支付支付宝などの電子マネー払いであっという間に終わり、支払い後にチケット手配完了と受け取り方法を知らせるショートメールが届く。

 なお、この方法でのチケット購入には、若干の中国語力が要求される面もある。

 一番面倒なのはチケット受け取り時である。

 何週間も前からチケットを購入した場合は、事前に指定先へバイク便で送ってくるから住所さえスマホ上で打てれば中国語力はそれほど必要ないが、直近で購入したりした場合は当日の公演直前に会場受け取りとなる。

 配送員が当日の公演開始1時間前くらいにやってくるので、電話で連絡を取りながら配送員を見つけ、チケットを受け取ることになる。

 当然先方は日本語も英語もできないので、中国語で意思疎通をする必要があるのである。

 どういった仕組みでこのようなチケット手配システムが成立しているのかわからないが、恐らくダフ屋が正式にビジネスとして立ち上げたダフ屋連合的な仕組みなのであろう。

 恐らくこれらは公演主催者にとっては非公式のサービスであり、このチケットについて公式窓口に問い合わせても、うちは関係ないといわれてしまうので、あくまでも連絡先は購入サイトととなる。

 中国で白タクがビジネスとして公式化してしまっているのと同様に、ダフ屋も公式ビジネス化してしまっているのだと推測される。

 その証拠として、会場近くでチケットを渡してくれる人はダフ屋の一人と目される人だったりするのである。

 しかも複数のサイトのお客を一人で扱っている人もいる。

 そういえば、中国語でダフ屋は「黄牛」であり、「票牛」の「票」は「漂亮=綺麗の意味」に繋がる面もあって、差し詰め「まっとうなダフ屋」という洒落なのかなとも察する。

 まあこのビジネスが社会的に法律に全く反しないのかどうかは分からないし、いつまで続くビジネスかわからないが、今のところトラブルもなく便利に利用させていただいている。