今年は日本の元号が変わることが決まっているが、そのおかげで昨年から平成最後の○○などという言葉が沢山飛び交うようになった。
既に中国に来て10年以上が過ぎているこちらにとっては和暦を使うこと自体が少ないので、平成最後といわれても実はあまりピンとこない。
それと、自分自身が昭和生まれということもあって、根っこが昭和にある意識が強く平成という元号にあまり愛着を持たないというのもある。
とはいえ昭和から平成に切り替わったのは私が高校生の時であるため、私の生きてきた時間の中では昭和より平成の時間の方が上回ってしまっている。
また就職したのも平成の世であり、私が微力ながら社会で行動したのは完全に平成の時代ということになる。
これが例えば私が作曲家などであれば、私が作った音楽は平成の音楽として扱われてしまうということになるが、それは自分の意識の中では結構違和感があることになる。
やはり自分のアイデンティティの根っこは昭和にあると思っているので、例え古いと言われようが「あなたは昭和の発想だね」と言われた方がしっくりくるのである。
こうやって考えていくと、かつて「昭和の○○」などと言われた人も、実は生まれた時代によっては意識の根っこは大正だったり明治だったりする可能性もあり、表に出てきた時期だけを捉えて評価をしてはいけないということになる気がする。
確かに年代は○○時代と年号で区切っていくけれど、そこに生きていく人の人生は幅を持って時代を跨いでいくわけであり、必要以上に外から区切りをつけるのは意味がないのではないだろうか。
そんなことを考えた改元を迎える年の初めである。