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高倉健死す

 中国でのニュースで高倉健さんが亡くなったということを知った。

 突然の訃報に非常に驚いている。

 八甲田山や南極物語、幸せの黄色いハンカチなど、彼の出演した映画の印象は非常に強く、語りはじめればキリがないほど心に強く残っているものがある。
 また映画以外のところから伝わってくる彼のエピソードも彼の人柄のイメージを損なわないどころか上回るほどの驚きの真面目な姿が伝わる。
 ところで、このニュースが中国でもあっという間に報道されたというのはいかに彼の存在が中国でも知れ渡っているかを示す一端だと思う。
 映画「君よ憤怒の河を渉れ」で有名になり、10年前の映画「単騎千里を走る」にも出演し、決して派手さはないものの彼の人柄は中国人たちにも広く深く知れ渡っている。

 人の人生は何れ終わりが来るとはいえ、この訃報を聞いて非常に大きなものを失ってしまったという悲しみを、彼を知る日中両国民が感じているかもしれないという気がする。

 故人の御冥福をお祈りします。

映画「南極物語」を見た
映画「八甲田山」を見た

映画「麦秋」を見た

 某ラジオ番組のリスナーテーマで、好きな駅というテーマがアナウンスされていたので、自分にとって好きな駅はどこかとを思いめぐらせていたところ「北鎌倉」という一つの駅が浮かんだ。

 この「北鎌倉」という駅は横須賀線の駅で、寺社の多い周囲の環境もあって、非常に質素な駅となっており、私も回数は多くないが気に入って何度かこの駅を訪れたことがある。

 夏目漱石の小説「門」もこの北鎌倉駅のそばにある円覚寺が舞台になっており、東京からの距離の割には非常に静寂な空間だと思うし、何よりこの駅はホームに屋根が少ないのが非常に味わい深い空間を生み出している。

 そして、この駅周辺が舞台となっているのがかの小津安二郎氏の映画「麦秋」(ばくしゅう)である。

 実はもっと幾つもの映画やドラマの舞台になっているんじゃないかと思ってインターネットで調べてみたが、今のところヒットしたのはこの「麦秋」だけであった。

 そこでこの「麦秋」という映画を改めて見ることにした。

 映画史に燦然と輝く小津安二郎の作品群であるが私にとっては時代が古すぎる映画なので今まで「東京物語」は見たことがあるがこの映画を見たことはなかった。

 「麦秋」は1951年の作品で発表から実に60年以上も経っており私の両親がまだ子供の頃の映画ということになる。

 ただ、見始めると本来は隔世の感があるはずなのだが、どこか懐かしくそこまで違和感を感じないのが不思議な映画であった。

 言葉の言い回しなども想像以上に現代の言葉に近く、昭和26年の戦後の時代という言葉のイメージ程には遠い時代の作品ではないという気がしたのである。

原節子さん(引用元)

原節子さん(引用元

 タイトルの「麦秋」とは秋の意味ではなく春の麦の収穫時期を指した初夏の候を表す言葉で、原節子さん演じる主役の紀子という女性が結婚という人生の実りに際する部分と重ねられてつけられたタイトルだ。
 英語では『Early Summer』(初夏)というタイトルが付けられているようだが、これだと収穫時期(適齢期)の「実り」の意味が消えてしまい、言葉として少々ニュアンスが違っているような気がする。

 小津安二郎の映画作品は原則フレームが固定でしかもややローアングル気味の画面が特徴であると言われる。

 現代映画のようなハイテンポさはないが、淡々としたストーリーの中に出演者たちがモノクロ画面を通して見せる表情に実に深みがあり、それだけ役どころの感情が印象的に伝わってくる。

 特に主役の紀子の父を演じる菅井一朗さんの演技は言葉少なにも関わらず、人の心の葛藤や迷いなど数多くのものが見えてくる。
 もちろん主役の原節子さんが見せる表情も魅力的であり、笠智衆さんの演じる兄とのやりとりも一つ一つのシーンが目に焼付く。

 ところでこの映画は特にが印象的に扱われている。

 映画のオープニングも海であり、全編中で唯一カメラアングルが動いたのがこの海を映し出すシーンである。
 原節子さんと義姉役の三宅邦子さんが砂浜を歩く姿を後ろから撮影し、クレーンでつり上げてられていくであろうカメラから徐々に海が見える構図となる映像となっている。

 このシーンについてウィキペディアなどでは某映画評論家の言葉として、砂の山を登る2人を中心に写すために単に構図を変えないためのカメラ移動の工夫だとしているが、私はここにちょっと異論がある。
 単に構図の安定のためだけに固定カメラにこだわる人がカメラを動かすのだろうかと思ったのである。

 私の印象としては、主役の紀子が今までの淡々とした安定した陸地を歩んだ人生から結婚という大海原が見えてきて、そこへ向かう彼女を義姉が見送るという象徴的なシーンとして取り上げたのではないかと思うのだ。

 つまりここに彼女を含めた周囲の人間の淡々としてきた人生の変化のポイントがあるとして、小津監督は唯一アングルを変化させるシーンにしたのではないか、そう理解している。
 
 まあ全体のストーリーとしてはたわいもない流れの映画だが、1人の女性の結婚という節目を巡って、周りの人もそこに1人1人の人生の葛藤を巡らせるのだと気付かされる実に深い映画であり、やはり名作と言われるにふさわしい映画のような気がする。


映画「おにいちゃんのハナビ」

上海で日本映画週間が開催され、偶然にもこの映画「おにいちゃんのハナビ」を見る機会を得たので行ってきた。

 どうやら私の見た回がこの映画の世界初公開、つまりプレミエ上映だったらしく非常に幸運な名誉ある機会に接することが出来たようである。

 これから観る人のために詳しいあらすじなどは書かないが、この映画は新潟県の片貝の花火祭りを舞台にした映画である。

 新潟の花火といえば長岡の花火大会などが有名だが、この片貝の花火祭りも負けず劣らず有名な花火祭りの一つとなっている。

山下清の長岡の花火 (引用元)

山下清の長岡の花火
引用元

 しかもこの花火祭りは日本全国の数ある花火大会の中でも非常に特殊な形態で運営されている。

 実は私はこの花火祭りに8年前に行ったことがある。

 世界最大と呼ばれる四尺玉の花火を見るためだったのだが、実際に花火大会を見学し、ここの花火が非常に特殊であることを知って驚いたことを覚えている。

 ここの花火の何が他のそれと違うのかというと、ここの花火には一発一発に村の人の想いが込められているのである。

 子供の誕生を祝ったり、亡くなった人の供養のためだったり、はたまた成人のお祝い、厄払い、還暦のお祝いなど様々な願いを込めて意味を持って打ち上げられる。

 一年一回のこの祭りのその想いのために片貝の人は、何十万、何百万というお金を祭りにつぎ込むのである。

 そして当日、このお祭りの司会者がそれを一つ一つ紹介する。プログラムや番付表にも掲載される。
 花火祭りの「祭り」の意味が本当の「祭る」という意味を持って受け継がれているのがこの片貝の花火祭りなのである。

 そしてこの映画の中でも主人公の「おにいちゃん」がある想いを持って「ハナビ」を打ち上げることを決意する。

 その想いが観ている私にも熱く伝わってくるような映画である。
元々涙腺の弱い私であるが、この映画は涙が乾く間がなかった。

 おべっかを使うつもりはないが、人が人を想うことを感じることが出来るいい映画だと思うので、是非皆さんにも観ていただきたい。

ところで、ちょっと関係ないかもしれないが、
以前この祭りを見たときに書いた日記があったので再掲しておく。

「美しさは永遠に?はかなくも美しい花火・・・」(””””02/09/25)
世界最大と呼ばれる四尺玉の花火を見てきた。
花火を写真に収めようとする方がまわりに大勢いた。
その行為自体を批判するつもりはないのだが、中には撮影に必死で
花火そのものを見ていない方がいらっしゃる。とても勿体無いことである。
花火のその瞬間を永遠に写真にとどめたい気持ちは解らないではないが、
花火はほんの束の間の輝きであるからこそ美しいのだと思う。
年に一度の花火大会、真夏の瞬間であるから美しいのだと思う。
何分も輝きつづける花火が美しいなら花火職人はもっと長く輝く花火を
創るはずである。 心に映った一瞬の輝きこそが永遠だと思う。
だから私は来年も花火が見たいのだ…