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黄水晶を買ってみた。

同僚が金運の効果があるというので黄水晶を買ってみた。
直径6cmのもので28元(約400円)である。

水晶の玉

水晶の玉(脇は大きさ比較のライター)

 まあこういった縁起物については自分は考え方の整理が決まっていて、この水晶そのものに特別なパワーがあると信じて買ったわけではない。

 もちろんそういった効果があることに越したことはないが、もしそんな力が実際にあるとするならば、そういった神秘的な力は諸刃の刃で有る可能性があり、プラスの作用があればどこかにマイナスの作用も生じるはずなので、どちらかというとあまり強烈な力に支配されることは好ましくない、私はそう考えている。

 ならば、どうして今回のような水晶を買ったか?

 偏に自分の心理的効果のためである。
 こういったものを買うことによって、もう少しお金に関心を持とうという心がけのための象徴のような存在として買ってみたのである。
 いつも目にする場所に置き、気持ちの中にお金に縁があるようにと心がけることによって本当にお金に縁が生まれるのである。

 実は、神社のお守りが何故効果があるのかということを、以前からよく考えていた。

 つまり、安全祈願、合格祈願、大願成就など色んな名目のお守りがあるが、別にそれらは神様の神秘的な効果が現れて願いが叶う訳ではないと私は考えている。

 お守りは単なる自分の気持ちの象徴であり、実際は自分の心がけそのものが願いを叶える、そう考えている。

 安全を祈る気持ちでお守りを持てば、常に日ごろから安全に注意をするようになりお守りがそれを思い出させてくれる。

 大願を祈って毎日お守りを懐に入れ精進すれば、大きな願いも叶うのである。

 もちろん願いが大きければ大きいほど、成就に必要な覚悟や苦労も大きくなり心が負けそうになる場合も必ずあるはずだが、そこにお守りがあれば自分の初心を思い出すことが出来て、困難を突破できる可能性を持つ。お守りにはそんな効果があると考える。

 よく値段の高いお守りは効果が高く、安いお守りは効果がないと考える人がいるがそれは大きな間違いである。

 毎月数万円のアルバイト料しか稼げない高校生が願いを込めて買う1万円のお守りと、数百億の財産を持つ人が気軽に買う100万円のお守りはどちらが効果があるといえるであろうか?
 言い換えればどちらの思いのほうが強いであろうかということになる。

 この場合、収入の大部分を使ってまで願いを叶えたい思う高校生の気持ちのほうが強いとはいえないだろうか?

 つまりお守りは値段ではなく、願いを叶えたいという気持ちに対してどれだけ自分の持っているもの、つまり時間であったりお金であったりするものを注ぎ込む覚悟をするかという決意表明の象徴であるので、表面上の単純な金額の大小ではその効果を計れないのである。

 もちろんお守りを買っただけでは効果はあるはずも無く、願いをかけた分だけの努力をしなければ大願だけではなく小願も叶うはずもないことは言うまでもない。

 また大願という程でなくても、安全祈願の面でも日々の心がけを大事にすることが結果的に自分の身を守ることになる。

 そのいい例が工事会社の安全祈願で、日本の工事会社は毎朝の安全祈願を欠かさず行っているが、たまに榊の水を替えるのを忘れたり、どこかの段取りに手を抜いたときに限って実際に事故が起きてしまうそうだ。
 もちろんそれは神様の神秘的な力のいたずらでもなんでもなく、安全に対する人間の僅かな気の緩みが社内のどこかに生まれている影響で事故が起きてしまうのである。

 つまりそういった日常の安全に対する僅かな心の緩みを生み出さず、緊張感を保つために彼らは毎朝の安全祈願を行っている

 逆に言うとそのくらい毎日神棚に向かって自分の心を戒めなければ緩んでしまうのが人間の心だとも言え、一見無意味とも思える形式的なことを厳格に繰り返すことにこそ実は意味が存在したりする。

 さてさて話を黄水晶に戻すが、こういった心理的願掛けとも言うべき意味で今回はこの黄水晶を買ってみた。

 決して高い金額の買い物をしたわけではないので重大な覚悟というほどの決意は無いが、それでも一種の願掛け的な意味合いを込めて買ったのは事実である。

 実際、この黄水晶を購入後から日々よい影響を願うようになったのは確かで、できることならそのままいい結果が生まれることを祈りたい。
 さてさて来年はいい年になりますように。

気軽にメリークリスマスと言うなかれ

 最近上海でも当たり前のように、12月になるとクリスマス商戦が始まり、デパートの看板や新聞の広告にMerry Christmasの文字が躍る。

新聞のクリスマス広告

新聞のクリスマス広告

 まあ日本でもごくごく当たり前の光景ではあるのだが、よくよく考えるとこの「メリークリスマス」と言う言葉はキリストの誕生を祝う言葉であり、キリスト教信者の言葉である。

 それを我々日本人は宗教観に無頓着のため、単なる年末商戦のネタとして利用しているが、敬虔なクリスチャンを除いて本当の意味でのキリスト教の宗教観をもって「メリークリスマス」という言葉を遣う人はかなり少ないと思われる。

 そのくらい日本人は宗教に無頓着である。

 上海でもこの状況は同様で、敬虔なクリスチャンが街全体にいるとも思えず、かなり多くの人間が便乗してクリスマス商戦を騒いでいるに違いない。

 まあ、このようにいまや元のキリスト教を離れて一般人の共有語のようになってしまっているような「メリークリスマス」なので、信者でなくてもいつでも誰でも普通に使って良いような気もするが、実はキリスト教以外の宗教の信者からすると、この話は簡単ではないらしい。

 例えば、日本のように政教分離が原則の国の政治家が「メリークリスマス」といえば、他の宗教からすれば宗教的メッセージとして受け止められ、逆に政治問題化してしまう可能性があると言う。

 アメリカなどはもっと深刻で、キリスト教信者は確かに多いが、ユダヤ教信者なども無視できないほどの勢力で存在し、さらに対中東的な立場から言えば、中東和平へのアプローチが、イスラムの世界に対する宗教的侵略であるとの印象を避けるために、大統領などは極力宗教色を排除する配慮が必要らしい。

 ただ、あまりそこへ気を使いすぎると今度は共和党の大統領はプロテスタントの支持基盤が大きいので国内的に支持されなくなってしまう。
 故にそのバランスというかさじ加減が非常に難しいらしい。

 元々中東紛争そのものが宗教的対立を背景にした紛争であり、宗教的な対立は戦争にまで発展する良い例であり、我々が普通に使っている「メリークリスマス」と言う言葉もキリスト教そのものを表す言葉であることを忘れてしまうといらぬ対立を招いてしまうことになりかねない。
 あまり気軽にメリークリスマスというなかれである。