社会の中で当たり前のように使われている言葉の誤用の中で、常日頃気になっている言葉がある。
それは男性が自分の配偶者を「嫁」(よめ)と呼ぶ習慣である。
人によってはどこが誤用なのかと反論する言葉もあるかもしれないが、「嫁」のそもそもの意味は「息子の配偶者」という意味であって、自分の配偶者を指す言葉ではない。
「うちの嫁が・・」といった場合は、息子の配偶者が対象なのである。
以前よくワイドショーの中の再現ドラマのタイトルに「鬼嫁」などという言葉もよく散見されたが、「鬼嫁」という言葉は基本的に「嫁姑」の対立の中で生まれてきた言葉で、自分の配偶者をいう言葉ではなく、あくまでも親夫婦世代と子供夫婦世代の対立の中で生じている醜聞ということになる。
では、そういった自分の配偶者を表現するには何と呼べばと良いのかいえば、日本語は「妻」となる。
また否定的な意味を被せていうときは「悪妻」となる。
つまり「うちの嫁」だの「鬼嫁」だのといった使い方は間違っていることになる。
しかし、この間違った言葉遣いがかなり広まっており、インターネットの記事などでも平気で誤用しているケースがよく見られる。
では、何故このような誤用がかなり浸透しまったのだろうか?
私の推測では核家族化が、「嫁」の乱用の原因なのではないかと考える。
新婚夫婦がどちらかの親と同居しなくなって久しいため、たびたびドラマに取り上げられた嫁姑問題はかなり下火になり、家庭内に二世代が同居しないため、嫁と妻を呼び分ける必然性が減り、正しい言葉の使い方をする機会が減ったのだろうと推測する。
また自分の配偶者をと呼ぶことに際しては、妻という言葉にはどこか改まった印象があり、照れもあるのではないだろうか?
そこで親の世代がやや卑下して使っていた印象の「嫁」が用いられたのだろう。
さらに、そもそも結婚は「家に嫁ぐ」といった印象がかつてはあったが、今やほぼ「夫婦が新しい家庭を築く」といった言葉に代表されるように、結婚は個人対個人の独立の概念となり、家に入るのではなく、家から独立するイメージで「嫁ぐ」の本来のイメージはほぼ消えてしまった。
中国や台湾など、中華圏ではまだ嫁ぐといった概念が消えていない印象はあるが、日本ではだいぶ薄れてしまった感がある。(それゆえの福原愛ちゃん夫婦のすれ違いなのではないかと感じる)
かつて新沼謙治氏のヒット曲に「嫁に来ないか」という歌があったが、結婚を求める曲ではあるが、かの曲は今の結婚概念と違い「自分の家に嫁いで来ないか?」という意味合いが強かった求婚歌なのであり、個人と個人だけの概念の結婚概念ではないのである。、
今後、核家族化の更なる浸透、あるいは今盛んに議論されている夫婦別性の実現により、夫婦はますます「家」という概念から離れると予想されるため、さらに「嫁」の誤用は広がる可能性はあるが、やはり妻と呼ぶべきであり、嫁と呼ぶことは間違いなのである。