映画監督はしょせん映画監督

次々にいろんな事実が発覚している北京五輪の開会式だがCG花火、口パクに今度は民族衣装を着せたやらせまで発覚してしまった。

出ていたのは56の民族なんかではなく全て漢民族の子供だったようだ。

 開会式の映像を見ていたときから、現在の中国が抱えている状況から言えばなんと白々しい演出だなぁとは感じていた。あまりにも白々過ぎてし、おそらくこれも実際は本当の民族の子供を使ってないのではないかと感じていたがやはりそうだったようである。

 どうも張芸謀監督は、オリンピックという舞台に映画の考え方をそのまま持ち込んでしまったようである。

 映画の世界ではドキュメンタリー映画を除けば映像に映る世界や人物は全てフィクションであり、映像の内側にだけその人物があたかも存在しその物語が存在するような雰囲気を作れればそれで問題ない。
 しかし、オリンピックの演出はそれではいけない。オリンピックの開会式は世界を相手にした単なる個人や国家の理想の表現の場ではない。そこに偽りの表現があれば、事実を偽るという事実ががそのまま表現者の本質を示すものとして世界に伝わってしまう。
 

56の民族が平和的に結びついているようなイメージを作ることと、56の民族の子供達が実際にそこに参加するということでは映像的には同じように映っても、全く意味が違う。前者は単なる平和のイメージ映像であって事実として平和があるかあやふやである。

 後者は事実としての曲がりなりにも56の民族が協力してオリンピックに参加している事実になる。その当りの意味を理解せずに安直に漢民族の子供を使ってイメージだけを演出してしまった浅はかさに、彼が映画館監督としての発想から抜け切れていない甘さがある。張芸謀監督は映画の世界ではいい作品をたくさん作っているので、こんな言い方はしたくはないが、幾ら映画界で巨匠であったとしても映画監督はしょせん映画監督であるということだ。

 大監督であるだけに今回は残念な汚点だ。



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