終戦記念日と言う言葉への批判

 今年2015年は終戦70周年という事で、日本にとっても近隣諸国にとっても一つの節目の年となっている。
 もちろん、私は戦後生まれなので70年と言う時を自ら実感することもないのだが、世界の歴史を見回した時にこの70年間日本に戦争が無かったというのは、実は奇跡的に凄い事でもあり、そんな時代を当たり前に生きられることに嬉しさを感じないわけでもない。

 ところで日本にとって戦争が終わった毎年8月15日を「終戦記念日」と呼ぶことに異を唱える人も時々いる。

 あれは「終戦」ではなく「敗戦」であり、敗戦という言葉から受ける心の傷から逃げるために「終戦」と言う言葉を用いており、現実から目を背けるために「終戦」と言う言葉を使ってごまかしていると指摘するのである。
 まあ確かにかの戦争の結果は敗戦であり、その戦争に「敗けた」という現実を直視して8月15日を「敗戦記念日」とせよと言う意見も一理あるかなという気もする。

 ただ、私個人としてはやはり「終戦記念日」を「敗戦記念日」と読み替えることには感心できないのである。

写真はイメージ

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 どうも「敗戦」という言葉には敗けた事実そのものだけではなく、「敗けた悔しさ」が含まれるような気がし、それを記念日とすることは悔しさをバネに勝利を再び目指せという意味が含まれてしまう印象なのである。

 つまり中国の故事の臥薪嘗胆の如く、復讐のために耐え忍ぶべきだと言う意味合いが含まれてしまうような気がするのである。

 あの戦争は確かにアメリカや中国、南方戦線で欧州諸国相手の戦いに敗け、最終的に国としてポツダム宣言で無条件降伏を受け入れ「敗戦」となった。
 しかし、戦後の世の中で改めて考え直せば、敗けた相手は実は「相手国」などではなく、戦争という手段で解決しようとしてしまった自国の中に戦争の悲劇の種があったのかなという気がする。

 確かにあの戦争は既得権益を固持しようとする連合国と権益争いがあり、日本などの枢軸国側だけに非があったとも言えないのだが、結局は日本国内の強硬派の台頭で戦争と言う手段で問題を解決しようとした結果、泥沼に入り込み大勢の犠牲者を生んでしまったものだと私は理解している。

 そんな図式の戦争に対して、8月15日を「敗戦記念日」としてしまえば、それこそ戦前の過ちを直視せず戦争の結果でのみ事実を判断する形になり、戦争の過ちを再び繰り返してしまうような気がする。

 故に8月15日を戦争の勝ち負けの記念日ではなく、戦争という轍を二度と踏まないという決意の日として「終戦記念日」と呼ぶことは意味があるのだという気がする。

 この点、戦争を引きずらず未来への平和の礎としている点で、単なる自国の独立を意味する韓国の「光復節」(8月15日)や中国の「抗日戦争勝利記念日」(9月3日)などとは一線を画している印象があり、非常に崇高な理念を感じ誇りに思うのである。

 近年日本では憲法改正論議や集団的自衛権問題が噴き出しているが、この70年の平和の有り難さをというのをもう一度見つめ直し、8月15日が「終戦」と呼ばれる意味をもっと考えて欲しいという気がするのである。



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