ネット社会は実は情報砂漠?

 よく一般的にはネット上は情報に溢れ、社会全体が情報に溢れるようになったと言われるが、社会を見渡してみるとどうもその捉え方はどこか間違っているのではないかという気がする。

 確かにインターネット上に数多くの情報が存在し、インターネットが存在する以前よりはるかに情報を得やすくなった状況は生まれている。

画像はイメージ

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 しかしながら、情報にアクセスが可能であることと多くの情報を個人が持てていることは実は同義ではない。

 情報を得られるチャンスが沢山あっても、人間が実際に情報を受け取らなければ情報を得たことにならないからであり、寧ろネット上に情報が沢山ある故に、敢えてクラウドコンピューティングの如く手元に情報を持つ努力を止めている人が増えたのではないかという気がする。

 つまり情報化社会の進展により、人間一人一人は以前より情報を持たなくなった面があるのではないかという気がするのである。

 さらに、情報技術の進歩と言うのは、基本として無駄を省き容易に主目標に到達できることを目指すものであることから、主目標以外の情報は切り捨てられる傾向にある。

 確かに主目標ただ一つだけを目指すなら、情報化技術は非常に効率的なのではあるのだが、必ずしもそういった取捨選択を効率的に行うことが、人にとって有益であるとは限らないのだという気がするのである。

 皆さんもYAHOOなどの検索エンジンを使った時に実際に経験していると思うが、人は主目標を目指す過程において、目標以外の周辺状況を見つけ興味を持って脇道にそれてしまう行動をとることが時々ある。
 そしてその脇道にそれた結果、本来の主目標より重要な発見をする時があるわけで、つまり主目標に絞り込んだりそれ以外の情報を切り捨てることが必ずしも人の知識にとって有用な状況とは言えない面があるのである。

 しかし、世間の情報化技術はどんどん絞り込みの方向を進んでおり、無駄をよしとしない傾向となっている。

 実際にこういった情報化技術が進んだ結果、実在の人間に何が起こっているのかと言うと実は情報判断力の劣化が起きているのではないかという気がする。
 つまりネットばかりに情報を頼ると、自分にとって耳当たりのよく都合のよい情報だけを求めるようになり、不都合な情報など耳障りの良くない情報から遠ざかり、実は世間知らずになりやすいのではないかと思われるのである。

 結果、情報化社会といいながら実は情報の偏りや情報不足に気づかず、他者や周囲の環境に対するノイズ(不都合・不快な状況)に免疫が無くなって情報ノイズ耐性が弱まるのだという気がする。
 情報ノイズ耐性が弱まれば、複雑な社会状況を受け入れにくくになり、極端な場合は、強烈な排他的思想に陥ったりする可能性があり、その最たるものが日本国内で起きているヘイトスピーチ問題や有名人への執拗なネットバッシングなのではないかという気がしている。

 まあ、そこまで極端な状況にならなくても、積み重ねで学べば当たり前のように蓄積される情報も知らずに、ネット上のうわべだけのニュースに振りまわされ知識不足で吹き上がっている状況がよく見受けられる。
 ここ最近のネトウヨ的存在やナショナリスティックな報道が増える動向も、社会の情報化の進化によって逆に視野が狭くなった人が増えた結果なのじゃないかと感じている。

 例えば「河野談話」という一つの歴史的事実に対して、あれを現職の河野太郎議員が発言したものと捉え批判している人がいるらしいのである。
 もちろん、河野談話の主は河野太郎さんの父親の河野洋平さんであり、そんなことも学ばずネット上で自由に発言している人がいるのが現実になっている。

 昔、前川清さんの東京砂漠という歌があり、東京と言う場所は人は大勢いるが人間関係は乾いており、まるで砂漠にいる状態ということを指した歌だと思うが、実はインターネット上も情報は沢山あるが人にとって潤いをもたらさない情報砂漠なのではないかと言う気がしている。

 まあ世の中の技術の進化は止められないが、人と情報との距離の置き方は実にとても難しい問題だという気がするのである。





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