人間の存在の希薄さ

 日本で今、高齢者の生存確認の件で大騒ぎになっている。

 役所の戸籍上は生存しているはずなのにその生存が全く掴めない人がいると言うのだ。

 死亡届はあくまで届出制度だから、死んでも届け出なかったり、定期的に連絡をとったり確認を取ったりする人がいなければ、死んだのかどうか把握できないという。

 こう考えると人間というのは非常に社会的な生き物であり、そうでなければその存在が非常に希薄であることがわかる。
 社会ときちんと結びついていなければその生死すら確認がとれないのだ。

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 もし仮に私が明日急に死んだり行方不明になったとしても、私は会社という組織に属しているし両親や友人が私のことを知っているから、私の存在の行方を追いかけてもらえることができるだろう。

 しかし逆に言うと、そういう存在が無ければ、もし私が死んだ時に私は死んだことを確認されないかもしれないし、もし行方不明になったとすれば、そのことすら気がつかれないかもしれない。
 それだけ社会や人間関係の中において自分が存在するのだなぁと改めて気がつかされる。

 ところで、こんな人間の存在意義の哲学的問題とは別に、今回の騒ぎの中に一つ見逃せない点が存在する。

 それは老齢年金の制度である。

 受給者の生存確認をとらないまま30年も支給を続けるとは何たる無様な制度であろうか。

 データー移行ミスなどのあれだけの社会保険庁自身の怠慢にも関わらずなんだかんだ支給認定を渋るような事例が聞かれる中で、片方でこのような間抜けな事例が多数発覚するような事態が起きているのは、驚きを通り越して呆れてしまう。
 
 これも恐らく日本の縦割り行政の弊害である。
 
もし日本の年金制度が老人保険制度などと連動する一本化された制度であれば、年金支給と健康診断をセットにし、毎年定期的な健康診断の受信が無ければ年金の支給を停止するような措置が取れただろうにと思う。

 また今回のケースでは恐らく家族による意図的な不届けによる不正受給のケースがかなり含まれると思われ、杓子定規に言えば彼らは悪いということになるが、今回の制度の不備や日本の高齢者福祉行政の中途半端さ加減を考えれば、黙っていた家族を責めるのもあまりにも酷というものかもしれない。

 高齢者が死ぬまでどう生活するか、生きていくか、そんなビジョンを建てられぬまま高齢化社会を迎えてしまった日本の姿が今現れ始めている。

 いずれ高齢化社会を迎えるという中国は、果たして日本のこの現状をどう見ているのであろうか。非常にきになるところである。





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