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中国がまだ旧暦を併用する理由

日本ではとっくの昔の明治5年に捨ててしまった太陰太陽暦(旧暦)だが、中国ではまだこの太陰太陽暦が生き続けている。
そのため1年の始まりを示す正月は、春節と呼ばれて未だに太陰太陽暦に基づいて行われる。
もちろん、これだけ世界との交流が激しくなっている現代では中国でも太陽暦(グレゴリオ暦)を公式暦として使用して、世界との共通軸を持つようになったのではあるが、一方で太陰太陽暦も捨てないでいる。

それは何故か?

その第一の理由として考えられるのは、太陰太陽暦の基礎となっている月の動きが実際の生活に大きな影響を与えているからと考えられる。
月の動きが生活に影響を与える代表と言えるのが潮の干満による水の動きである。

中国の沿海部は大陸棚の影響か浅い海底が多く、渤海湾などは干満の差の大きい場所として知られており、そこに繋がる黄河なども干満の影響を受け、満潮時の黄河周辺では洪水などのリスクが高まる時期となる。

同様に東西に長く伸びる長江でも影響は小さくなく、河口から1000キロ上流の武漢まで影響があると言われている。
さらに逆流で有名な杭州湾奥の 銭塘江なども潮の干満に影響を受けるため、月の状態によって洪水のリスクが左右される。
そもそも彼の地の逆流は潮の干満によって引き起こされている現象である。

銭塘江の逆流

このように中国では、各地に潮の干満によって影響を受ける地域が多く、そのためその基になる月の状態を暦によって知る必要がある状況となっている。

中国に限らず、太陰太陽暦を採用している地域は軒並み潮の干満差の激しいところであり、ペルシャ湾に面するメソポタミア文明でもやはり太陰太陽暦が採用されている。

逆に地中海のように地形上の理由で潮の干満の影響をほとんど受けないエリアでは、太陰太陽暦はほとんど採用されず、エジプト文明やローマ帝国などでは太陽の動きだけを基にした太陽暦が用いられているのである。

つまり潮の干満を知る必要がある中国では太陰太陽暦を捨てきれないのだと考える。

中秋の名月

中秋の名月(2013年9月の満月)

第二の理由として、植物や動物の生きるリズムが、月の動きに影響を受けていることが知られており、農業や漁業などに影響を与えているからだと考えられる。
例えばウミガメの産卵周期は海の干満と一致するし、海で育つ牡蠣なども干満の周期が大きく影響を与えているとされ、農業の上でも、太陽暦ではなく、太陰太陽暦を基に種まきなどを行うと成育が良いとされる。

それ故に、太陰太陽暦で月の動きを把握して行動する必要があり、太陽の位置だけを基にした太陽暦だけでは農業も漁業も都合が悪いのであろうと考えられる。
つまりそのために中国では現代でも新旧暦併用の状態となっているのだと思われる。

このことから考えると、日本の暦が明治の初めまで太陰太陽暦で、明治のタイミングで太陽暦に切り替えられたというのもなかなか興味深い変遷とみることができる。

古代飛鳥時代に他の文化同様に太陰太陽暦の暦を中国から輸入したというのは、単に中国から文明を学んだというだけではなく、海に四方を囲まれた日本にとっては、潮の満ち引きの大きさがわかる太陰太陽暦は都合が良かったから定着したとも推測でき、農漁業を行う上でも都合が良かったのだろうと考えられるのである。

逆に明治になって暦を切り替えてあっさり旧暦を捨てることが出来たのは、技術の進歩などにより潮の満ち引きなどの生活への影響がかなり克服された状況にあったからではないかとも推測される。

もちろん太陽暦の導入は明治政府の政治的意向(財政対策とか)があったにせよ、旧暦を捨てるにはそれなりの環境が整っていることが必要だったと私は思うのである。

ここが現在も旧暦を併用する中国との大きな違いと考えられ、現代の日本は海の干満によって洪水などということはほとんどなくなったが、中国では陸地の規模が違うために現代でも干満が非常に大きな影響を与えている状況であり、それ故の月の動きの把握が必須であり、太陰太陽暦を使っているのであろうに思われる。

現在は旧暦と呼ばれてしまっている太陰太陽暦だが、その内容をつぶさに見ていくと、単なる精度(誤差の多少)だけでは片付けられない面白い要素が沢山あり、中国ではそれがまだ生き残っているということに物凄く興味深い意義が感じられるのである。

何故長江文明ではなく黄河文明だったか

ちょっと文明論的な話になるが学生時代の世界史の授業で馬鹿の一つ覚えのように覚えさせられた事項に世界の四大文明というものがある。
エジプト文明インダス文明メソポタミア文明、そして中国の黄河文明である。

現在の学会では古代文明をこの4つに限定することに異論はあるが我々が学んできたのはこの四大文明に他ならない。

学校では何故ここで文明が発達したかの理由について、それぞれそこにある大河が上流から肥沃な土壌を運んできて、農耕社会が発達したというのが教科書的な答えであったが、これは間違っていないが視点が半分欠けている。

実は長江流域では黄河文明が始まるずっと以前から定住農耕社会が形成されたと言われる。

 農耕文化だけを基準として言えば長江文明は黄河文明より早く産声を上げていたことになるが、それにも関わらず黄河文明の評価ばかりが固まっているのは何故か?

 世界の四大文明の地理的共通点をもう一度見直してみると大河以外のもう一つの特徴に気がつく。

 それは背後の砂漠地帯の存在だ。

 エジプトにはサハラ砂漠があり、メソポタミアにはアラビア砂漠、インダスにはインド砂漠がある。

 長江にはそれにあたるものが見当たらない。
 
肥沃な長江流域は二毛作ができるほど豊かだが、黄河その他の文明域は川を絶対的に頼らなければならないほど、周囲の環境が厳しく、それによって地域の格差が生まれ、川を巡る争いと川を活かすための知恵と社会組織が形成されていく。

 文明が発達する過程には社会形成があり、社会形成の過程には厳しい環境とそれによって生じる格差が存在する。

 そこが長江の農耕が豊かであったため、厳しい環境の黄河流域のような文明成長を遂げず、今なおもって対照的に文明としての評価を受けきれない理由であろうに思う。

 この図式は今の現代に通じるものがあり、国民総中流社会になり安定してしまった日本が経済的な伸びシロを見出せないのに対し、現状に批判はあるものの国内で格差が生じていることによって社会が成長している中国がそれだと思う。

 格差のあるところに成長がある

 格差の上に立てない人にとっては悲しい話であるが人の世の常はそういうものであるような気がする。