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上海の学生が「素晴らしい~」

 別に上海の学生を褒めようというのではない。
 先日の夕方に某サンドウィッチチェーンの店舗で食事をしていたところ、中学生だか高校生くらいの男の子が数人で入店してきた。

 その時にその中の一人が発したのが「素晴らしい~」という言葉。

 その学生たちは特に日本語で会話していたのではなく、中国語で会話する現地の普通の学生さんだったが、なぜかはっきり「素晴らしい~」という言葉が出てきた。
 恐らく大して意図をもたない状態で発した言葉だと思われ、ガチョーンとかイェーイとかと同じように、何となく口をついて出ただけのようだった。

 しかし裏を返してみれば、その学生にとってはそれだけその「素晴らしい」という言葉が彼らの脳裏に焼き付いてしみ込んでいるという言葉でもあり、それだけ日本の文化に触れている環境があるのだろうと察する。

 例えばアニメだったり、ドラマだったりなどを見ていないと、なかなか日常生活の中で「素晴らしい」という外国の言葉は口をついて出てこないだろう。

 この学生さんのケースにとどまらず、とっと日本人に興味を持っている中国の人々の会話でも、時々日本語のワンフレーズが紛れ込むことはよくある。

 気持ちいーとか、おいしいーとか感嘆符的なフレーズである。
 多くは思い出しきれないが、上海の街を歩いていても時々日本語のフレーズが混じっている言葉を耳にするのである。

 日本語でも「デリシャス」とか「ビューティフル」と時々混じる人がおりあれと同じようなものであろう。
 そういえば、先日上海の路上で「藤原とうふ店」と自動車の外装にプリントされた車を見かけた。

藤原とうふ店とプリントされた車

 上海にそういった日系の豆腐屋が出来たのかと思いきや、どうやら日本の漫画にそういう設定の豆腐屋と車が登場することを中国人に教えてもらった。

 国家間では時々国民感情のぶつかり合いが取り上げられる日中両国だが、文化の面ではいろいろな場面で日本の文化が染み込んでいっているようである。

中国では三角関数を中学で習うようだ。

 先日、テレビを久しぶりにつけてチャンネルをまわしていたら、中学の数学講座をやっているのをみつけた。

 初中の数学と書いてあったから日本で言う中学校の学年である。

 さてさて、中学の問題が今の自分に理解できるかなと見ていたところ、どうも思っていたより内容が高度なような気がした。

 サイン・コサイン・タンジェント、、、あれれこれは三角関数じゃないかい、どうりで面倒臭い問題がならんでいるはずだと思った。

 私はこの三角関数が結構苦手であった。

 ただ、今思い出してみると中学でこの三角関数を勉強した記憶が無い気がする。

 はて、日本では高校でこれを学んだのではなかっただろうか?

 気になって調べてみるとやはり日本の教育課程では三角関数は高校での学習範囲に入っている。

 昭和42年ころまでは日本でも中学における学習範囲だったようだが、徐々に学習要領の改訂が行われ、三角関数は高校へ移ったようである。
 私の両親の時代はこの三角関数を学んだあと高校へ進学していたことになる。
(ちょっと親を見直した)

 で、それが中国では今現在も中学で教えている。

 つまり日本より1年早く三角関数を学んでいることになる。

 これがいいかどうか分からないが、中学の学習要領に三角関数が入るとなると、当然高校入試の範囲に含まれることとなり、三角関数の苦手な私はこれが入試にあったと思うとちょっとゾッとする。

 幸いにも私は三角関数が免除されていた時代に高校入試を迎えたために、三角関数の洗礼を受けずに高校へ進学することができた。

 中国で中学生にならなくて幸運だったと思う。

原文

体罰の事件の話

 日本で体罰が原因で生徒が自殺したとされる事件について、主に体罰の是非について意見が真っ二つに分かれた論争となっている。

 今回の当事者の行なった行為が暴力なのか、体罰なのか、指導なのか様々な見解が分かれていることであり、特に体罰絶対反対を主張する人から圧倒的な非難の声が上がっている。

 恐らく各人の中でも体罰と言われる行為からイメージされる行為の具体的な中身に相当の差異があり、絶対反対から一部容認、必要論者までそれぞれ実は思い描いているものが相当違うのではないかという気がしている。

 また実際経験してきた人生によってもこの意見は相当違うであろう。

 まあ体罰が必要か否かを論じる議論はまず横において考えたいのだが、人が成長する過程において忍耐力や精神力が必要なのは言わずもがなで、大して苦労せず蝶よ花よと育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが、社会で打たれ弱いのは当然の話となっている。

 ましてやスポーツを行う者が、お遊びスポーツクラブではなく真剣に日本のTOPや世界のTOPを目指したアスリートを目指すためには、人並み外れた精神力や忍耐力が必要で、その成長過程で相当自分を追い込んでいかないととてもTOPになんぞたどり着けないのは誰もが知るところだと思う。

 このアスリートたちが自分を鍛え上げるための手段の中で、自ら厳しい課題を自分に課して行くのが大方のアスリートたちのやり方でもある。

 自分ひとりで厳しい状況を作れればそれに越したことはないが、アスリートたちは自らの意思が非常に弱いことをよく知っており、他人が作ってくれる厳しさに身をゆだねる場合が多々ある。

 今回自殺した生徒の子も、恐らく体罰を振るっていたとされる顧問が日常からどのような指導方法をとっていたか1年生の時から知っていたはずで、それにも関わらず彼は自らキャプテンに自ら志願してなったと聞く。

 恐らく彼なりにアスリートとしての自分を追いつめていく方法をとったのだと思われる。

 もしかすると同級生を傷つけないための彼なりの正義感で犠牲の意味で代表になったのかもしれないし、その真相は私には分からない。

 でも、自分を追いつめた場所が自分が想像していたより厳しい場所だったのか、体罰の痛みだけが残って成長出来ない自分に苦しんでいたのか、彼にしか本当の真相が分からないが、結局自ら命を絶つ選択肢を取ってしまった。

 世間では今回は体罰が彼を自殺に追い詰めた直接の原因であるという一辺倒の論調で体罰そのものがやり玉に挙げられているが、今回のケースでは体罰が無くてもやはり同様のケースを招いていた可能性があるような気がしている。

 残念ながら体罰であろうとなかろうと、厳しかったり苦しかったりすることを乗り越えられないとなかなか精神的に強くなれないのは事実で、どんなに理論的科学的な事を学ぼうとも、最後にはそれをやり遂げる精神力の勝負になってくるため、スポーツの指導者は基本として甘い顔をして教え子を甘やかすことはしないのが通例である。

 アスリートが甘い考えを持ってスポーツに臨んでも何らいい結果をもたらさないからである。

 そして彼らがなぜ体罰を与えるのかというと、人は痛みからアドレナリンを分泌するからであり、本来は防衛本能の為のアドレナリンであるが同時にスポーツ選手に必要な闘争本能をもたらしてくれると考え、体罰は体育系の人々に容認されてきたのだと思う。

 闘争本能を必要としない我々の生活からすれば、アドレナリンのための体罰なんかとんでもないとなるが、限界を追及する彼らからすればそれほど違和感のない行為なのである。
 故にこうした実態が露見しても受験志願者が減らないのはそういったことを感じているからだと思われる。

 今回の体罰論争がどこへ決着するか分からないが、例え今後体罰が一切禁止されることになったとしても、アスリートたちが自らを追い込む手段を探す行為は変わらず、やはり自らの課した課題の重さに迷い苦しむ人が出て来るのはいつの時代も変わらないんじゃないか、そんな気がしている。

 故人の御冥福をお祈りします。

原文