早期教育の影響?日本語の受身が弱くなっている?!

 先日あるスポーツ関連のニュースを読んでいた時の事にちょっと違和感を覚えたことがあった。
 記事で書こうとしている内容とタイトルの視点が食い違っており、動作主体が逆になって書かれていたのである。

 本来はAという選手を評して記事が書かれているのであるけれど、タイトルではそこに絡んだBが動作主体となってしまっていた。

 本来はAを主体に受身の文章の形を取り、Bを登場させるべきはずなのである。

 まあタイトルの方も言わんとすることは分からないでもないが、日本語の文章に長けている記者さんたちなら違和感を覚えたはずである。

 少なくともその編集長は気が付かなければならないレベルである。

 それがスルーして記事になってしまってきたことは彼らのやはり日本語文章力に問題を感じる。

 どうしてそのような受身への切り替えができないかと考えたときに、中国人たちへ日本語を指導していた時の事を思い出した。

 中国語や英語ではあまり受動態が文章を表現されないのである。

 そんなことはない、英語にはちゃんと受動態があるという方もいるかもしれない。
 英語の場合は、一応be+過去分詞が受動態とされており、我々はそう学んできたが、これは厳密な意味で言えば日本語の受動態ではなく、組み立てによって受動態のような形式に組みあがっている文法という気がする。

 例えば 
 The door is opened by him
 は、通常は「そのドアは彼によって開けた」と訳すが、これは日本語の受動態を意識するからであって、直訳的に言えば「そのドアは彼によって開いた」と訳しても意味が成立する。

 しかし、これを日本語として受動態とイコールなものとして解釈しているのが日本語と英語の関係であり、実際上の英会話において彼らの思考として本当に受動態と感じているのかはいささか疑問がある。

 要するに、上述のタイトルを書いた記者は、本来は本来受動態で書くべきところに、受動態での表現習慣が薄い発想で、直訳的発想で文章を書いたのではないかと察せせられる。

 純粋な日本語環境で育っていれば、少なくともこういった受動態記述には慣れているはずで、能動態的表現に違和感を感じるのではないかという気がする
 しかしそこに気が付かなかったことから察するに、純粋な日本語環境以外の場に身を置いていたのではないかと想像する。
 たとえば、海外だったり英語の早期教育を受けていたりする場合などである。

 実は上記のような受動態的表現が不自然だったり、その他の「てにをは」などの助詞の使い方が下手な人は、10代の頃から海外を転戦するスポーツ選手に見られたりして、インタビューを聞いていると日本語としてほんの少し違和感がある。

 日本語として、意思疎通が不可能になるほど幼稚なわけではないけれど、どこか表現に不足を感じるのである。

 このように考えていくと、今後帰国子女や英語の早期教育が増えていくにつれ、受け身的日本語の表現が廃れていくのではないか、なんとなくそんな風に感じるのである。





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