「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」
この言葉は、かの米沢藩主上杉鷹山公が残した言葉で、世間に名言として広く伝えられ座右の銘として私も大事にしている言葉である。
あの米国のケネディ大統領もこの言葉を座右の銘にしていたとか、クリントン元大統領が日本で最も尊敬する政治家として上杉鷹山の名前を挙げていたとか、まあ真偽のほどは分からないがそれくらい有名な言葉となっている。
故につい先日に日本に一時帰国した際もちょっと無理をして、紅葉見学ついでに山形県の米沢市の上杉神社まで足を延ばし、言葉を頂いている鷹山公に対してお参りをして来た。
まあそんな風に大事にしているこの言葉だが、最近ちょっと世間とのこの言葉の解釈の違いに気が付いた。
それはこの言葉のうち「為さねば成らぬ何事も」の部分の解釈についてである。
冒頭の「為せば成る」は「やれば出来る」という意味でこの解釈については世間共通で私も異論がない。
しかし続く句の解釈に、私は世間一般の解釈と若干のずれがあるのである。
「為さねば成らぬ何事も」という言葉は、ネット上の情報など世間の多くでは「何事もやらなければ(始めなければ)結果を得られない」と説明されていたのだが、どうもこの解釈に私は違和感を覚えるのである。
つまりこの言葉はそういった「行動しなければ結果は得られないんだ」とやる気を持って前向きに行動することを諭す意味だけではどうも弱いように感じるのである。
何故なら苦しい藩財政を立て直さなければならない時期に奮闘した鷹山公が、単なる「やる気」の大切さを説くだけの言葉を言うのだろうかという気がするのである。
実は私はこの言葉を「何事も(どんなに大変な事でも逃げ出さず)やらなければならない」と「立場の責任の重さを自覚せよ」という言葉の意味に理解している。
そして結びの「成らぬは人の為さぬなりけり」は「出来ないのは努力が足りないからだ、逃げ出したい気持ちがあってやるべきことをやっていないからだ、やるべきことをやれ」と努力不足と自らの甘えを戒める意味と理解しているのである。
日本語として単純に解釈を説けば「やる気」の大切さを説くことで完結してしまうのかもしれないが、鷹山公の生き様を汲めば私には「苦しくても必ずやり遂げなければならないんだ」という戒めの言葉に聞こえてくるのであり、こう解釈すればこそこの言葉の重みが出てくるように感じ、世間の解釈だけでは軽すぎるように感じるのである。
まあ世間に広まっている解釈の方が学問的には正しいのかもしれないが、例えそうだとしても私としてはこの言葉は戒めの座右の銘として大事にしていきたい言葉なのである。
座右の銘というのは本来そういう言葉だからである。