普通は人が死ねば、その周りの人が悲しみ、懐かしみ悲しみにくれ、街の記憶とともにその人の存在が周り人々の心に生き続ける。
例え事故であっても、病死であっても惨い殺され方をしようとも、その死を悲しんだり記憶に焼き付けてくれる人がいる。
本来「人の死」とはそういうものだと思っていた。
しかし、今回の日本の大地震、というか正確には津波によってもたらされた被害は想像を絶する風景がテレビ映像として流れてきている。
映像を見る限りでは日本は地震対策がかなりしっかりしてきており、観測史上最大の規模の地震という割には、建物崩壊の被害はそれほど大きくなかったような印象を受ける。
しかし地震以上に津波の破壊力は甚大だった。地震は凌いでも津波に対しては抗う術が全く無かったようだ。
街ごと流され壊滅的状態になった街が東北にごろごろ見つかっている。
街ごと無くなってしまうということは、一緒に暮らす家族や同級生や近所の人などまるごとなくなってしまう。
つまり死んだ本人の周りもまとめて死んでしまうので、その人の死を悲しみ、懐かしみや悲しみにくれ、街の記憶とともにその人の存在が周り人々の心に生き続けることもない。
街の周りの人は、そこに街があったことは知っていても、そこでどんな人が日々どんな暮らしをしていたかは、余程の交流が無ければ記憶にとどめるほどの印象はあるまい。ましてや街がまるごとを無くなってしまえば、そういった僅かな記憶さえ辿ることも難しくなる。
結局はその人の死はただ死んだと役所の戸籍上に記録されるだけになってしまうのだ。
人の死に重いも軽いもないが、そんな人の記憶にも留まらない個人の死はやっぱり悲しい。
今回私の日本の両親はとりあえず無事であったというメールがきたが、中国の多くの友人も私の日本の家族の心配をしてメールでたくさんの連絡を送って来た。
そうやって人に気にしてもらえるというのは大変ありがたいことである。