「紺屋高尾」というのは落語の有名な演目の一つで、私はこの噺が結構好きである。
もっとも私がこの噺を知ったのは「幾世餅」という古今亭志ん朝さんがやっていた演目がきっかけであり、最初に好きになったのは「紺屋高尾」だったわけではない。
この「紺屋高尾」と「幾世餅」は若干の設定の違いはあるものの、ほぼ大筋では同じストーリーで、私は「幾世餅」の演目名を思い出すのにググっていたら「紺屋高尾」にたどり着いた次第で、実はこちらのほうがメジャーな演目であることを知ったようないきさつとなっている。
この噺の大まかな流れとしては、江戸の若い職人が吉原の位の高い花魁に恋をして、一心不乱に仕事に精を出し金をためて会いに行くというのがストーリーとなっていて、身分を偽って花魁に会った職人が別れ際に自分の身分を告白する場面が山場となっている。
こういう古典落語の世界を聞くと、江戸時代というのは今よりかなり性の文化が開放的であることが分かり、今では男性が女性の前で吉原など岡場所の話をすることはタブーに近いが、話の中では主人公の務める店のおかみさんが、吉原を容認しているような会話をするなど、独身者が吉原に通うことには寛容だったことが分かる。
また高貴な商家の旦那が吉原の遊女を身請けするという話も数多くあり、吉原にいたという立場がそれほど蔑まれていないような雰囲気がある。
どうやら日本の性の観念ががらっと変わったのは明治維新がきっかけで、それ以前はかなりおおらかだったというのが落語の世界から見て取れる。
この明治維新の変化は、今の中国を見ていると実は同じような観念の変化が起きているのではないかと感じるところもないではない。
さて話を元に戻すと、今回一昨年に亡くなった立川談志さんの「紺屋高尾」の高座をYOUTUBEで観た。
本来私は談志さんの落語はあまり聴かないが、たまたまこの紺屋高尾の収録がYOUTUBEに載っていたのを見つけて観ることにした。
フジテレビでやっていた「落語のピン」の最終回の収録で、1993年当時のもののようだから今から20年前のまだかなり元気だったころの高座である。
談志さんの落語は聴いてみると、決して立て板に水というほどテンポがよいわけではなく、それどころかところどころ脱線があって時々話が止まるのだが、それが妙なアクセントを持って不思議な魅力を放っている。
そして今回の噺の最大の山場である職人が花魁に嘘を告白するシーンの語りは、何とも惹きつけられるものがあり、ホロッと涙を誘うほどに職人の真剣な思いが伝わってくる語りだった。
私はどうもこういった一途な思いを持つ人の心に弱く涙せずにはいられない。
そういった一途さを見事に演じてくれた談志さんの紺屋高尾であり、久しぶりにいい噺を聞いたな、そういった印象を受ける高座だった。