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2013年06月18日 未解決なのに消えた原発デモ
 トルコの反政府デモやG8会場付近でのデモ活動が日本も報道されてるが、昨日聞いていたラジオの中であるジャーナリストがこんなことを言っていた。

 日本の原発デモは解決してもいないのにいつの間に無くなったというのである。

 確かに言われてみればその通りで、昨夏にあれだけ騒がれていたにも関わらず、
恐らく昨年の衆議院議員総選挙辺りを境に報道を聞かなくなったような印象がある。

 確か彼らは原発政策に反対しており、それが選挙でも争点の一つになったはずだが、選挙を終えてみて自民党の圧勝となり、原発反対派にとっては前に進むどころか後退した感のある状況になっているにも関わらず原発デモのニュースは聞かなくなった。

 実際、新政権のその後の政策の中身は原発廃止どころか輸出までするという話も出ており、「原発反対」と言う主義の人からすれば、憂慮すべき状況で、さらにデモはヒートアップしていて然るべきなのに、現実的には消えてしまっている。

 これは果たしてどういう事なのだろうかとちょっと考えてみた。

 まあ飽きっぽい国民性という片付け方も出来るが、そういうことではないという気がしている。

 私が思うに「原発反対デモ」を支えた意識は「原発反対ではない」と思え、つまり原発反対デモは表面的な現象でしかなく、根源的な不満はもっと別のところにあるだという気がするのである。


 そこで思い出したのが、私が昨年書いた原発デモに苦言を呈するブログにコメントをくれた人の文章である。

 今思うとその人の文章には「既得権益」と言う言葉が何度も出てて、原発そのものの危険性に反対するというより、社会への不安が強く、その象徴的なターゲットとして原発に反対するといった姿勢の文章だったように思える。

 つまり経済的困窮などによる社会不安への不満が自分たちと違った場所にいるように見える既得権益者(のように見える)人たちに向けられており、その経済社会の象徴として電力を生み出す原発が結びつけられ、原発が自分たちの生活を脅かす社会不安の根源として原発を廃止しろというデモの形になったのではないかと思えるのである。

 それが昨年の選挙によって政権が交代し、まあ今のところ中身が伴わない表面的な雰囲気であっても、実際円安や株高が進んで経済に対する将来への期待が頭をもたげてきたため、生活に対する不安感がやや解消されつつあるためにデモも無くなったのではないかと私は分析してみた。

 もちろん今でも原発反対の声は無くなっていないが、生活への不安を基準にした場合は、原発の危険性より経済回復への期待の方が勝っているのが、現在の社会の雰囲気がと言う気がする。

 もちろん、この現在の景気期待感が裏切られればデモが再燃する可能性もあり、その時の状況は前政権の時より逼迫するのはないかと私は感じている。

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2013年06月14日 則巻千兵衛さん
 声優の内海賢二さんが亡くなった。

 YAHOOのニュースでは「ラオウの声優亡くなる」と出ていたので誰のことかわからなかったが、「Dr.スランプ アラレちゃん」の則巻千兵衛さんの声優だと知ってびっくりした。

 まあ世代によって見ていたアニメが違うのは当然で、私はラオウの出ていた北斗の拳はほとんど知らないので、ピンと来なかったのである。
 (「お前はもう既に死んでいる」のセリフは有名だったが、それしか知らない)

 そうか、そんな歳になってしまったのか。

 考えてみれば最初の放送が行われたのは私が9歳の時であり、あれから30年以上が経ってしまっていると考えれば、声優さんが亡くなったとしても不思議ではないのであるが、やはり寂しさを感じる。

 そういった懐かしさを思い出してみてまたちょっと観たくなり、中国の百度で昔の映像がないかどうか検索したところ、全放送分が登録されていることを見つけた。

 まああまり時間も無い中でちょとだけ見てみたところ、40代バリバリの内海賢二さんが千兵衛を楽しむような演技っぷりは絶好調で、今見てもとても楽しかった。

 今回そんな小さなころの思い出がなくなったのは残念である。


 ところでこの、「Dr.スランプ アラレちゃん」は1997年にもリバイバルで作成されているのを今回初めて知り、その映像も見てみたが、初代作品とは声優陣も違い前作のイメージもあって私には馴染みづらい作品となっていた。

 まあ評するに、前作の面白さを知っていた世代のクリエイターが、主要要素だけ抜き出して、新時代的にアレンジしてスピードアップしたものであるという感じだったが、私には前作にあったアホらしい限りのペンギン村ののんびり感がなく、そこが魅力だったはずなのに新作にはそこが見られず寂しさを感じた。

 ただ、現在中国で売られているアラレちゃんのキャラクターグッズなどは、どうやら97年版のキャラクターデザインをベースにしている物が主流のようである。

 メガネの形などが微妙に違うのである。

 以前から最近の中国人達が売っているキャラクターグッズは私の記憶にある印象とどうもちがうなぁと常々感じていて、パクリ文化の偽物デザインだからと自分の中で片付けていたが、今回97年版があることを知って、そのグッズだという事を知って納得した。

 ただ、そうすると現在の中国人達がイメージするアラレちゃんや千兵衛さんのキャラは、97年版のものということになり、同じキャラを知っているはずなのに実は彼ら彼女らと違うものを意識しているのかと思うと、得も言われぬ壁を感じてしまう。

 私にとっての則巻千兵衛さんはやはり内海賢二さんでなくてはならないのである。

 故人のご冥福をお祈りします。

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2013年06月07日 アベノミクス崩壊か?
 もともとこのアベノミクスという経済政策というか、掛け声は好きではなかったが、日本の経済の現状を考えたら、好き嫌いを別にして日本の景気回復の足掛かりになってくれればと思っていた。

 故にやり方は好きではないが決して崩壊を望んでいたわけではない。
 しかし、この半年間続いてきた勢いに陰りが見え始め、急激にブレーキがかかっている。

 先日発表された「成長戦略」は修飾語ばかり多くて中身が何もないようだと専らの評価になっていて、それと呼応するかのように株価が下落、円高もものすごい勢いで進んでいて、今朝もNY市場で円が95円まで戻ったとのニュースが伝わってきた。

 10年後に所得150万円増などと言う言葉も、ある評論家に言わせると一見大きい数字のように見えるが年率換算で3%未満に過ぎず、世界の経済成長の平均は4~5%なのに3%が目標では情けなさすぎるということらしい。

 そうでなくても現在の金持ち優遇政策では10人のうち9人は変わらず1人だけが1500万円増える政策だと揶揄される声もある。

 また日銀のインフレターゲットが年率2%なら実質経済成長率は差し引き1%となり、1%ならこれまでも達成してきた数字と何も変わらず、今回の目標は実は何もしない宣言として受け取られかねない数字なのだという。
 
 つまり絵に描いた餅どころか、餅の絵さえ描けていないのが今回の経済戦略のようである。

 この半年間、期待感だけ先行して円安や株高が先行してきたが、どうにも中身が伴わないのが見えてきており、期待感が高かった分だけ非常に危うい状態になってきている気がする。

 しかも元に戻るだけならいいが、財政出動した分だけ国債残高は増え、長期金利まで上昇していて、既に同じ場所には戻れなくなっている。

 発足した当時から政権奪還に浮かれた危うさをこの政権に感じていたが、やはり、そろそろメッキがはがれつつあるように見え、目前の参議院選挙さえ先行きが危うい状態になっているのが現状のようだ。

 ただ、政局的な視点で現政権を批判をするのは簡単だが、アベノミクスの崩壊は日本の崩壊にも近い意味があると感じており、どうにか最悪の状態だけは避ける手を打ってほしい思っている。



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2013年06月02日 歴史好きの見識
世の中には歴史好きを自認する人は少なくなくないが、彼らは本当に歴史の内容を分かって歴史好きを自認しているのかという疑問が時々涌く。

 特に日本の歴史が激しく動いた時期に対して戦国ロマン、幕末ロマンなどと言う言葉を平気で口に出し、武将や中心人物たちをヒーロー化する人に対しては特にそういう疑問が強い。

 言うまでもなく「歴史」が指す言葉の意味の半分は古今東西国内外問わず戦争と権力闘争や権力統治の歴史であり、歴史が動くところのほとんどに戦争があり、血で血を争う闘争の歴史がある。

 しかし歴史を語る多くの人は、どちらの勢力が勝ったとか負けたとかそんなことばかりを語り、戦争を行なえば勝ち負けに関わらずほんのわずかな例外を除いてどちらの勢力にも多数の死者が発生して来たのが人間の歴史の現実なのに、そこを語る人は少ない。

 しかしながら戦争が起きて、その戦いで死んだ兵隊一人一人の親兄弟家族たちは、総大将の勝敗や世の中の流れに関係なく肉親の死を悲しんできたはずであり、そういう悲しみが戦死者の数だけ存在してきたはずなのだが、歴史好きの視野にはどうもそういうことが忘れ去られている気がする。

 例えば天下分け目と言われた関ヶ原の戦いについて、東軍の徳川家康が勝ったことは誰もが良く知るといころであり、小早川秀秋が裏切った云々の流れは良く語られるが、両軍の兵に実際どのくらい犠牲者が出たのかなどは、諸説あることもあって詳細を言える人は少ない気がする。

 まあ数対数の戦争でしかなかった時代の、何千何万騎のうちの兵隊一人の誰が戦死して誰が生き残ったなどは、世の中の全体の流れの中では全く関係ないことであるかもしれないが、その兵一人一人は人間であり、その肉親にとってはこの時代として仕方ないことだったこととはいえ、やはり悲しい出来事であったはずである。

 にも関わらず、現代の歴史好きたちが、その生死を胸先三寸で左右してしまう権力者たちの動きにばかり目を向けて、末端の名もしられぬまま命を落としていた数多くの兵隊たちの存在をないがしろにして、ただ歴史が好きだととか、あの武将は凄かったなどと言ってしまう感覚は果たしてどうなのかという気がしている。


 ましてや、過去の歴史史実や人物を捉えて、そこに自分を重ねて酔っている政治家や政党、経営者たちの姿を見ると、やはり人に対する感覚を疑いちょっと嫌悪感を抱いてしまう。

 歴史の史実に関心を持ち、正確に見極めたり知ったりする事は決して決して悪い事ではないが、政治家のように人の上に立つ人たちなら尚更のこと、兵は将棋の駒ではなく人である事を意識し、歴史とは権力統治者の系譜だけではないことをもっと意識するべきで、軽々しく武力行使やリストラを口にするべきではないと思う。


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2013年05月28日 慰安婦問題の前に
 某市長の発言により、再び慰安婦問題が世間を騒がしているが、世間の視点とは少し違う視点でこの慰安婦に関する問題を考えている。

 世間では慰安婦にされた女性の人権問題ばかりが取り上げられているが、慰安婦の問題は確かに重要な問題であるが、これはそれ以前に軍隊と言う存在をどう考え、軍人の人権というものをどう考えるかの問題も含んでいる気がする。

 人類にはあまりにも太古の昔から軍隊というものが存在し、それが当たり前の人類の歴史になっているため、兵隊にさせられた人間に対して人権がどうのこうのという議論は、学術上はともかく世間ではほとんど議論になってないが、兵隊に強制的に徴収され命の危険にさらされる戦場に送られている状況は、現代の普通の社会の尺度からすればやはり人権侵害と言える面があり、慰安婦問題と同様に憂慮すべきことであると思う。

 まあ今更、人類の戦争の歴史を批判しても始まらないし、今や徴兵制ではなく多くの国家の軍隊が志願兵制度に移行していため、自由意思によるものだということであまり問題にはならなくなったが、今でも一部国家では徴兵制度が残り、国民に対して兵役を義務を課している。

 もちろんスイスやオーストリアのように強い自治意識のもとで国民が納得ずくで徴兵制をやっている場合もあるが、大半は権力者の押し付けで徴兵制であるような気がしておりやはり人権と言う面でどうなのかという気がする。
 特に日本の慰安婦問題を強く非難しているかの隣国でも現代においても未だ徴兵制が残り、日本のかつての慰安婦制度を批判するなら現在のおたくの徴兵制は人権侵害じゃないのかと言いたい面もある。

 確かに日本も戦前は「お国のために命をささげて働くのは当然だ」的な強引な理論がまかり通って兵役を拒否することは許されず、もちろん喜んで兵役に参加した人もいようが、どちらかと言えば敵に銃口を向けなければ今度は自分が背後から撃たれたれる恐怖があったり、家族が世間の嘲笑の目にさらされるような脅迫意識の下で、敵へ挑んでいった人も沢山いたと想像し、やはりそれも今の尺度から言えば自由意志の否定と言う人権侵害だったと言える気がする。

 そして軍隊あれば必ず起きてくるのが性処理の問題で、これは軍隊がある限り太古の昔から必ず存在し、放置すればレイプなどの暴力が軍隊の駐留地で多発してきたのが軍人と軍隊の歴史であり、それをコントロールするためにかつて慰安所という管理方法を利用していたのが軍隊の歴史である。

 歴史と書いたが、現在でも軍隊は世界中に存在し、生身の人間を家族から引き離して、軍隊の中に閉じ込める限り性処理の問題は現在でも存在するわけで、各国軍隊はその管理に苦慮しているのが現状であり、我慢しろとか理性を持てなどと言葉上だけで言って解決するものでもないだろう。

 さらにこれは軍隊の問題に限らず、現代の企業による単身赴任やスポーツ選手の遠征などにも同様の要素があると言え、まあ1~2週間の短期間ならともかく半年1年となれば性の問題は軽んじることはできず、慰安手当てを出せとは言わないまでも、安易な転勤で居住地移動させ、家族と引き離して単身赴任行動をさせるような人事処理は極力控えるべきで、僅かばかりの転勤手当を払えば済むといった問題ではないという気がする。

 つまり慰安婦問題が発生する前段には必ず、軍隊制度などの男性に対する人権問題が存在し、そこを解決しなければ、結局は慰安婦問題だって解決しないということになるのである。

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2013年05月17日 ドラマの見過ぎというドラマのセリフ
 最近中国のドラマの中で見た(聞いた)セリフの中でちょっと気になったものがあった。

 それは「ドラマの見過ぎよ!そんな都合よくうまくいくわけないじゃない」とのセリフ。
 つまりテレビドラマの中でドラマを否定するようなパラドックス的なセリフである。

 テレビドラマというのは、一応現実の世の中の反映があり、あたかも現実であるかのように製作するのがテレビドラマなわけだから、ドラマの中でテレビドラマが存在するということを否定しても始まらない。

 しかしながら、テレビドラマには当然考え抜かれたストーリーがあり、都合よくハッピーエンドや、その他のエンディングを迎えられるように物語が流れていくのがテレビドラマであり、そういった世界の中でテレビドラマを引き合いに出して「ドラマのように、、、」などとドラマ自身を引合いに出し、しかも否定のセリフを言わせてしまうのにはやはり何となく違和感がある。

 これが否定のセリフでなければ、そんなに気にならないことかも知れないが、否定されるとやっぱり違和感があり、どうも合わせ鏡の世界を覗いた様な気分になる。

 こんなことを気にするなんて私こそテレビドラマの見過ぎと言われてしまうかもしれないが、見過ぎというほど見てないつもりである。。。


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2013年05月16日 ひけらかしの心理
 社会の中には、どうしても自分の知識や物などをひけらかさずにはいられない人がいる。

 やれ「俺はこれを持っている、凄いだろう」「俺はこれを知っている、お前は知らないだろう?」「俺はあそこに行ったことがあるんだ」「俺はこの肩書きだ」などなど、、自分の知識や所持品、行動、さらには立場などをやたらひけらかす。

 まるでその知識や物を持っていることが偉いことであるかのように上から目線で他人に物を語る。

 まあこうなってはどんなにすごい知識であっても馬鹿の一つ覚えと大差なく、周囲にこういったモノ自慢や学識自慢の薀蓄を語る人がいるとちょっとうんざりする。

 こういう「ひけらかしたがりの人」はどこの世界にもおり、現在発展途中の中国も競争社会であるためか物自慢をする人が増えている気がするが、何故彼らはこういったひけらかしをせずにはいられないのだろうと考えてみた。

 この点についてネットなどでいろいろ調べてみたところ、何となく納得する回答を見つけた。

 そこに書いてあったのはこういったひけらかしをする人は、実はそういった形でしか他人とコミュニケーションの取れない、一種のコミュニケーション障害だというのだ。


 もちろん人によって程度の差はあるが、要するに母親に褒めてもらいたい子供のように、世間や相手に自分を見て欲しいという承認欲求が強く、自分の物や学識を振りかざすことによって、コミュニケーションを取ろうとする心理らしい。

 つまり相手をリスペクトする心理より自分を認めて欲しいという欲求の方が強いから、自分の物や行動をひけらかす以外の手段では、相手とのコミュニケーションが取れないことになる。

 また自分に自信がなく不安であるため、弱いことを隠すために相手を上回る点をやたら強調し、自分のポジションを確保したいという意識の表れでもあるらしい。

 もちろん、こんな一歩通行的なコミュニケーションでは他人との意思疎通がうまくいくわけがないのだが、成長過程での訓練不足でそれ以外の手段を持てていないので、結局は例えマイナス反応であっても最低限度相手の反応がある自らのひけらかしに走り、極端な場合は自分と共通の世界を持つ相手とだけしか交流しないオタク化してしまうようだ。

 まあこうなってしまうと気の毒と言えば気の毒だが、現代社会のようにSNSやブログ、ツイッターなどコミュニケーションツールと言いながらどちらかというと言いっ放しで終わることの多いツールが発達する中では、相手の話を聞くことよりも自ら発信して反応をもらうほうが自らの承認欲求を満たす確率が高いような印象を持つ人が多いのかもしれない。

 こう考えてみると、ひけらかしをする人を気の毒だなという視点で大目に見てもいいのかなという気もするが、実際そのひけらかしを目の当たりにすると、やはりうんざりしてしまうのが実際のところである。


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2013年05月14日 元同僚の結婚式に呼ばれる
 日曜日に中国人の元同僚の結婚式に参加してきた。

 まあ最初から予想はしていたが、日本人はおよそ私一人だけで、あとは新婦側の親戚にカナダ人の黒人と結婚した女性がその黒人の旦那と子供を連れて来ていたが、そのほかは恐らく全て中国人で、まさに中国人たちの結婚式だった。

 とはいえ、今回の式は日本人の結婚式とそれほど大きな違いのない都市型の結婚式
で、やろうとしている内容も日本人のそれと大差なく、日本で沢山の結婚式の仕事をしてきた自分としては改めて緊張するような式ではなく安心して参加することができた。

 もちろん、日本人から見るとどうなのかなといういわゆる中国的な特殊な点も見なかったわけではなかったが、今回は元同僚の祝いの席のことなので割愛させていただく。

 その同僚とは、中国に来て間もない頃からの付き合いだから、もうかれこれ6年の付
き合いになる。

 今回は全体で8卓あまりの規模の婚礼だったが、隣に同席した人に尋ねてみたところ、呼ばれた人のほとんどは親戚ばかりで、その尋ねた人も従妹であり、友人知り合いの類は1卓分にも満たないような出席者構成だとのこと。

 つまり今回自分はそういった中の1人として招かれた訳で、外国人であるにも関わらず、元同僚が式に呼んでくれたことを非常に光栄に感じた。

 むろん、その元同僚にプライベートの友人があまり多くないのかなという点も若干危惧しなかったわけじゃないが、それにしても中国人の親戚だらけの中に日本人一人をその席に呼んでもらえるのは身に余る光栄な扱いである。

 今回は中国に来て初めて参加した中国人同士の結婚式となったが、中国滞在6年を超え、そんな中国人たちの大事な節目の輪の中にも混ぜてもらえる自分がいることに、時間の流れの蓄積を感じた今回の結婚式であった。


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2013年05月09日 衛生観念の格差
 先日ニュースで流れていた偽の羊肉事件の記事を読んで、今回ばかりはさすがにショックが大きかった気がする。
 特に、ネット上に上がっていたネズミの写真のインパクトが強く少々トラウマ気味になっている。

 まあ私自身は、普段から衛生観念についてそんなに厳格ではないためローカルの食堂で食事をすることなどはそれほど抵抗は無く、実はかつてあった地溝油の事件などについてもそれほど強いショックを受けてはいなかった。

 地溝油には発ガン物質が含まれているという噂もあったが、中国でなくても食材に発ガン物資の混入を100%避けるのは難しく、神経質に気を付けたところで限界があり、見た目の調理上では分からないということで気にすることもしなかった。

 それに、上海の街に住んでいると、少なくとも現地の中流階層以上の人は日本人にほぼ近い衛生観念を持っており、そういう人たちの中で生活している限りではそれほど食生活に不安を感じなかったのである。

 ところがそこへ今回の事件である。

 今回の偽羊肉事件の発覚には上海市民たちも驚きは隠せないようで、連日ニュースで紹介され、日常の食生活に様々な不安を巻き起こしている。

 ただテレビの報道などを見ていると、上海市民の驚きとは裏腹にこういった事件を起こしている地方の人々にはどうも悪いことをやっているという感覚に乏しいような雰囲気が伝わってくる。


 寧ろ、キツネやタヌキ、ネズミの肉から高級な羊肉モドキを作れるようになったのは発明として喜んでいる様なフシさえある。

 さらに添加物についても万が一体調が悪くなっても都会は医療が発達しているから大丈夫なんでしょ?といった開き直りの感覚もあるように見える。

 福建で起きた病死豚肉の横流し事件も、普段は自分のところで豚肉を食えない畜産農家は豚が病死すると肉が食べられると喜ぶような衛生観念土壌があり、それを法律で危ないからと規制したところで、結局は勿体ないとして食べたり売り裁いたりしたのが今回の事件である。

 特にこの事件では公務員に該当するような立場の人が事件を起こしており、公務員であっても人としてのモラルは、現地レベルということになるようだ。

 最近になってようやく上海や北京などの都会のモラルなどは世界標準に近づいてきたのかなという印象はあるが、一歩都心部を離れれば世界標準には程遠い常識がまかり通っているのがこの国の実情である。

 まあことほど左様に中国という国の中には、経済格差と比例するように衛生観念の格差やその他の考え方の格差があり、それが同じ国の中で一つの市場として繋がっているところにこの国の怖さがある。

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2013年05月07日 嘘くさい文章
中国に来てからよく中国人の友達の履歴書など日本語チェックを頼まれる。

 その場合、意味の通じにくいところだけ説明して修正してあげるが、本人が書いた大筋は崩さず、ぎこちなさを残したままの文章で本人に返してやる。

 もちろん、こちらは日本人なのでもっと流麗な文章に直してやることも可能だが、そこまでやってしまうと、ネイティブが書いたようになってしまい嘘くさい文章になってしまうからである。

 もちろん本人にそれに近いだけの能力があれば別だが、残念ながらそこまで実力が無いのに流麗すぎる日本語の履歴書を先方に提出しても、後からがっかりされて恥をかくのは本人なので、あまり下駄を履かせすぎるのはよくないと思っている。

 まあ日本人の人事担当者の中には履歴書くらいは例えマニュアルを真似てでも綺麗な日本語を書いてくるべきだと考える人もいるかも知れないが私は全く逆である。

 私が日本で人事の仕事をやっていたときは、マニュアルそのまま的な文章を書いてくる奴がとっても嫌いで、テクニックばかりに走ってて、本人の中身が見えてこない気がしたのである。

 逆に言葉にぎこちなさがあっても、懸命に書いてきたような文章のほうが好感を持てていた。

 ただ当時の私には採用裁量権までは無かったので、私の意思で実際に採用を決めたりしたことは無かったが、上司の判断とはそんなに違わなかったような気がしている。

 そういえば先日某タレントが、部屋の大家でもあった大御所の女優に家賃滞納の詫びの手紙を送ったが、女優側が「自分の中から出てきた言葉というより、人に書けって言われたから書いたような手紙が来ました。」と反応したことがニュースになっていた。

 やはり型通りの綺麗な文章というのは、人の心に届かないということのようで、必要なのは言葉や型ではなく、伝えたいと思う本人の気持ちの様だ。

 もちろんビジネス文章と手紙の文章では、多少事情が違うと思うが、読むのが人である限り、型どおりの嘘くさい文章より、本人の心が現われているぎこちない文章のほうが読む人にとって気持ち良いものだと思っている。


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プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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