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2013年10月28日 大気汚染は気候のせいではない
 中国の最近の大気汚染のニュースを見ていて、気になる記述が時々ある。

 それは風が弱いなど気候が要因で、スモッグが街を覆っているという専門家の分析コメントである。

 あたかも気候がスモッグを発生させている一因かのようなコメントとなっている。

 確かに、スモッグを街に停滞させている環境要因はそこにあるかも知れないが、風が弱かろうと強かろうと、大気を汚染している物質総量は変わるわけではなく、汚染物質が汚染を起しているわけで、気候が汚染を起している訳じゃない。

 以前にも書いたが、例えば風が吹いて大気が拡散して北京の天気が晴れあがったとしてもそれは北京上空にあった汚染物質がどこかへ移動しただけであって、汚染物質が消えてなくなって問題が解決したことにはなっていないのは皆が知る通りのはずなのであある。

 それなのに「風が弱くて汚染物質が拡散しにくい状態」だのと言っている時点で、まず環境に対する認識がそのものが間違っているだろうに思う。

 まあ中国で起きているマナーの問題は、全てが環境問題の認識レベルに直結しているような気がしており、街中での便にまつわるマナーや、喫煙や吸い殻のポイ捨てなどは、ゴミとして捨てたり水に流したりしても、やがて自然が土に返してくれるといった古来からの生活様式のスタイルが抜けないという気がする。

 中医学の様な伝統にばかり恋々としているような発想からまだ抜けられないのである。

 しかしながら、既に中国も工業製品が出回るようになり、昔のように無責任に投げすただけでは自然に還ってくれない世の中になっている訳だから、そのことを誰かがきちんと教育すべき必要があるのだと思う。

 つまり、大気汚染が起きたらまず「どこが発生源か」「拡散ではなく浄化する手立てはないのか」を考える思考回路になるべきだろうと思うのである。

 まあ環境認識問題に関しては日本も原発汚染水などを抱えてあまり他国を注意できる立場ではないが、大気汚染に関しては解決法が先進国によって既に道筋が付けられている訳であるから、あとそれに取り組むか取り組まないかだけの状態であるだろうに思うのである。

 くれぐれも風で拡散したしないで一喜一憂してほしくないという気がしている。

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2013年10月27日 中国から「おじさん」がいなくなる日
 先日、ラジオを聞いていて興味深い話を耳にした。

 これは中国のことではなく日本の事情について話されていたものであるが、今や日本から「おじさん・おばさん」という存在がいなくなりつつあるという事である。

 もちろん中年の男女が減っているという意味ではなく、両親のお兄さんや弟、或いはお姉さんや妹が存在しない人間関係が増えつつあるという意味であった。

 つまり少子化によって一人っ子の家庭が増え、その一人っ子同士が結婚して子供が生まれても、その子供にとって両親はいても両親の兄弟姉妹はいないわけだから当然「おじさん・おばさん」の存在はいないことになり、更にその子供の従妹などという存在も有り得ない社会となる。

 まあ突然蒸発していなくなるとか、そういう後発的要因が無いにも関わらず、おじさん・おばさんという人間関係が最初から全く存在しない中で人が育つ社会になっていることになり、人の社会関係が大幅に変化している状況になっているのが現代の社会だというのである。

 この「おじさん・おばさん」というのはある意味身内でもあり、一方で完全に家族の人間であるわけでもなく、言わば家族と世間の中間にある存在で、一つの家族が社会から完全に孤立しないように繋いでくれる、社会と家庭内の風通しを行なう窓の様な存在である。

 更にそのおじさん・おばさんに配偶者がいれば、その配偶者の親兄弟の存在を通じて社会への繋がりをさらに広げ、自らの家庭と社会を繋いでくれる役割となる。

 それ故にある面では時々内側まで踏み込んでくるその人間関係は鬱陶しくもあり、ある面で身内の情で助けられたりしてきたのが、一人っ子時代を迎える前の社会の姿であった。

 しかし、最近のようにこういった「おじさん・おばさん」という存在がなくなりつつある人間関係というのは、家族の外はいきなり公衆・公共の場となり、そこは単なる法律的・社会的ルールにのっとった社会平等的な関係しか存在しない場所であり、そこに親戚の情というものはなく、自らが積極的に人間関係を築く努力をしなければ、社会のルールにのっとって粛々と処理される人間関係のみが存在するようになる。

 故にこういった「おじさん・おばさん」の存在なしに育った子どもというのは、親戚が大勢いる環境で育った人間とは社会に対する接し方が大幅に変わってくるという気がする。

 こうやって考えると、この一人っ子社会がもたらす親戚構成の変化は、人の発育段階に対する社会環境の劇的変化といって良い気がするし、ひいては社会そのものが単なる人口減少論に留まらず、人間関係や社会の基本的枠組みに劇的な変化を与える可能性があるのはないのかという気がする。

 つまり、これまで親戚という血縁関係が担ってきた社会の連帯的役割部分がなくなり、今後は全てを公共的な行政機関などが担わなければ社会が成り立たない時代がやって来るのかも知れないということを意味するのである。

 で、ここまで書いたのは日本の状況についてであるが、法律で一人っ子政策が定められた中国は状況はもっと深刻であろうに思う。

 最近の中国ではいわゆる失独家庭と言われる一人っ子を失った家庭の老いた夫婦の問題が、大きな社会問題になっているが、まあそれは過渡的な瞬間的な一つの事象に過ぎず、問題はもっと別の大きな部分にあるのではないかという気がするのである。

 ご存知の通り、血縁主義の強く残る中国の人間関係においては、血縁の関係が何よりも重視されるほどに非常に強い繋がりとなっている。

 しかし、この一人っ子政策によって、単に人口減少や少子高齢化のみならず、中国人社会を強く結びつけてきた血縁社会の断絶をもたらすという気がするのである。

 当たり前だが、上述のように両親に兄妹が沢山いればその兄弟の数だけ配偶者がおり、その配偶者たちを通じて血縁関係が結ばれるわけだから、兄弟が多ければ多いほど親戚は増えることになり、その関係が何代にも渡れば結びつきはさらに深くなるのであって、そうやって中国人達の社会は結びついてきたと思うのである。

 しかし逆に最近のように両親の兄弟が少なければそれだけ親戚関係が狭まることになり、血縁を結ぶ絆の数も減ってくるわけで、最低限2人兄弟いれば親戚は存在することになるが、一人っ子同士だと全く血縁の広がりがないことになり、代を重ねるうちに血縁関係がやがて断絶することを意味する。

 つまりこれは血縁関係で成り立ってきた中国にとって実は目に見えない革命的な社会の変化であろうという気がするのである。

 その変化の大きさ故に、一人っ子時代の進行のその結果によってこの国の人間社会がどう変化していくのか、現時点では全く分からないのが正直なところである。

 今後の中国人社会は血縁社会から地縁社会に移行するのか、或いは公共ルールに基づく人間関係しか存在しなくなるのか?中国から「おじさん・おばさん」が全くいなくなる日、その日を考えるとちょっと怖いものがある。


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2013年10月18日 産みの苦しみ
 先日のサッカーの日本代表の東欧遠征の試合で、日本が2連敗した。

 双方ともW杯出場を逃している国との対戦とあって、W杯出場を真っ先に決めている日本代表にとっては現在の実力を測る絶好の機会ともあって善戦が期待されたが、結果はいいところがあまり出ず2連敗となった。

 これを受けて、マスコミやサポータからは不満の声が続出しているが、一方で今回の試合では寧ろ真剣勝負で臨んだというよりいろいろテストを試合中に行なったということが記事で伝わっている。

 トーナメント大会のようにガチンコの勝負で勝ちにこだわれば、もっと違う結果が出たかも知れないが、最終目標のW杯本大会で大きな結果を引き寄せるための試行錯誤の時間だということのようだ。

 まあ全てに勝ちの結果を求めるサポーターにとっては、どんな理由であれ「負け」という結果は嬉しくないのかも知れないが、大きな目標で結果を出すための一過程だと考えれば、この数試合で一喜一憂することは逆に大きな目標を得るためには邪魔な感覚かも知れないという気もしており、今は産みの苦しみの最中だということで長い目で見守りたいという気がする。

 サッカーに限らず、仕事でも私生活でも目先の小さな結果にこだわるか大きな目標にこだわるかで、日々の取り組み方というのは大分違ってくるものである。

 この「産みの苦しみ」の言葉の元の意味にもあるように、子供を産む母親は1年近くをかけて子供をお腹の中で育ててからようやく産むから、出産後は大切に育て一生大事にする。
 これが数日で産めるような子供なら、出産前も出産後もそれほど大事にせず大きくなるまで頑張って育てないのではないという気もするのである。

 そういえば先日、雑誌ananの特集で「出来ちゃった婚」ならぬ「さずかり婚」は、プロポーズから出産まで一気に叶えることが出来て、悩む要素もなくスピーディに出来るから素晴らしいなどという記事が出て、世間で物議を醸している。

 確かに今や4組に1組が出来ちゃった婚というのが現実らしいから、そのこと自体は特に恥ずかしい事ではなくなったようなことだが、推薦するのはどうかということだ。

 まあ当の本人たちにしてみれば、いきなり妊娠してしまうというのは突然行動の締め切り時間を設定されるわけだから、悩んでいる暇などなく決断しなければならないし、行動が素早くなる可能性はある。

 しかし、そういった試行錯誤を経ない安易な結婚は、崩壊も早いようで通常の離婚率33%に比べ授かり婚の離婚率は44%にも上るというデータがあるという。

 ある人に言わせれば、結婚は結婚に至る迷いや試行錯誤の時間を経て、さらに周囲への説得など多くの過程や困難を乗り越える過程を経るからこそ、夫婦の絆を強くするのであり、それ自体が長く維持できる結婚生活を迎える必要な過程であり、その過程を面倒くさいとか省略しようという発想は、結婚に対する認識自体が間違っているとのことである。

 結婚や出産など重大なものに踏み出したいなら、産みだしたいものが大きい物であればあるほど、本来は産みの苦しみや悩みは深いはずということである。

 まあこれはビジネスの上でも言えて、例えばある目的のために事業を起こす場合、水から育てることをせず、安易に会社を買収してノウハウや機能を吸収しようとする手法では中々ビジネスの目的にはたどり着きにくいように思われるのである。

 安易に得た関係は結婚同様にやはり壊れやすいわけで、それなりの覚悟で向き合う覚悟を無いと、会社や社員に対する愛着も薄く切り捨ても容易になりやすいような状況になる。

 しかし、じっくりと腰を据えて物事に取り組み、試行錯誤の上で作り上げていったものはちょっとやそっとでは揺るがないし、結果として買収などの安易な姿勢で結果を求めようとするよりは、大きなものにたどり着きやすいのではないかという気がしている。

 産みの苦しみ、それに直面している日本代表は見守ってあげたいし、自分も頑張りたい。



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2013年10月10日 抗日戦争ドラマは過激か?
 国慶節に入る前に、しばらく通しで見ていた抗日戦争ドラマがある。

 まあ日本人の自分が何を好き好んで、こういったドラマを見ていたのかは自分でも分からないが、まあテレビをつけた時にたまたま見て、そのまま見てしまったという感じである。

 私が見ていたのは「向着勝利前進」というタイトルで、訳すならば「勝利に向かい続け前進しよう」となるだろうか?

 前半はあまり見てないので後半からである。

 まあ流石抗日ドラマというか、中国軍側の主役はジャニーズ張りのかっこいい俳優の呉奇隆さんで、ヒロインもまた甘婷婷さんという美しい女優さんが演じており、この辺りどうも政治的というよりは、アイドル的配役なのではないかという気がしている。

 対する日本側は、青木少佐(途中で中佐に昇格)というのが最大のヒール役で、青年将校のそこそこハンサムな男だが、やはり中国人が演じており、セリフは両軍とも何故か中国語であり、時々「はい」「ばか」など一言単位で日本語が混じる程度となっている。

 で、まあドラマだから仕方ないがよく言われるように戦闘時の日本兵は非常に弱く、死に方も過激で、結構血が飛んだり手りゅう弾で簡単に吹っ飛ばされたりするし、中国側の弾が当たるとすぐに死んでしまう。
 
 対する中国側も犠牲者はそれなりに出るが、弾はほとんど当たらないし、みな武芸の達人のようで、江戸時代のチャンバラよろしく何十人もやっつけてしまうほど強く、どうも不平等な戦闘能力で描かれているといった印象である。

 これを見ていると、仮面ライダーのショッカー達の気分が良く分かるような気がする。(笑)

 中国側のキャスト級も、台詞がまともにある役は回を追うごとに少しずつ色んな形で犠牲になっていくが、ややドラマチックに描かれ過ぎており、中国側のエキストラ兵が殺される時の対応とに随分差があるような気がする。

 日本兵にも中国兵にも、亡くなった無名の兵の向こうにも家族も友人もいるはずなのに、そこはドラマなので考慮されないようなのである。

 こういった抗日ドラマなどは、日本からよく過激すぎるなどと批判の対象となったりするが、まあパワーバランスはともかくとして、過激すぎるかどうかはいささか疑問はある。

 演出が入って偏っているとは言え、そこに映し出されている内容は戦争の現実であり、日本人が戦争の現実から遠ざかり過ぎている現状が、こういったドラマを過激だと思わせているのではないかという気もする。

 もちろん映像作品に過激な現実を映し出すことばかりがいい事では無いが、戦時中の街の雰囲気など、戦争が起きている時分の、戦地以外の街の様子や人々が意外と穏やかであったとか、偏っていることさえ目をつぶれば抗日ドラマは意外と勉強になる面はある。

 日本ではこういった日中戦争時代を描いたドラマや映画はほとんどないし、あるのは単に個人の生きざまにスポットを当てたようなフィクションドラマだけのような気がする。

 もし日本で日中戦争ドラマを作ったとしてもその表現の一挙手一投足まで中国側から難癖をつけられて、非難ゴーゴーになるのは目に見えてるから、誰も作りたがらないのだろうから余り作られないのだろうという気がする。

 そんな環境に育ってきた日本人の自分にとっては、この抗日ドラマは、あまり気分のいいものでは無いものの戦時中の現実を見る貴重な資料となったような気がする。 


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2013年10月10日 文章疲れに砂糖
 国慶節の連休中、人に頼まれて翻訳だの何だの文章系の頼まれ仕事を引き受けていたら、結構頭がヘロヘロになってしまった。

 文章を書くというのは、翻訳であれ創作であれ結構集中力を要するので、何時間も文章をを書きづづけると頭が相当疲弊する。

 故に自分のための文章などをゆっくり思考する時間も気力も無くなってしまっていたのである。

 そんなわけでブログが10日も止まってしまったが、ヤマを越えたので再開しようとは思う。
 ところで、文章を書く上で脳みそをフル回転させるのに必要なものに糖が必要で、今回この糖に随分助けられた気がする。

 眠いから単に眠気覚ましにコーヒーを飲むときにはブラックでもいいのだが、脳を使って作業をしたい時には糖のエネルギーが必要になる。

 単純作業の場合は、砂糖が入っていなくてもいいのだが、どうしても頭を使って考えなければならない時にブラックコーヒーだけでは目は冴えても頭は働かない時があるのである。

 そんな時は、カロリー云々は脇に置いて甘ーい砂糖入りのミルクコーヒーの様なものを飲むと頭の思考が動きだし、物事を深く考えることが出来る。

 これは科学的にも実証されているようで、脳のエネルギー源は糖であるとされており、故に文章作業のように頭の回転を必要とする場合は糖の補給は必須といって良いようようなのである。

 もちろん、砂糖の取り過ぎはカロリーオーバーや糖尿病などに繋がるし、夜中に飲むと胃に悪影響を与えるので度をわきまえることは大切であるが、血糖値の上昇を恐れすぎると、実は頭が働きにくくなり思考が悪くなるというのが糖と言う存在のようだ。

 それ故に、大人も子供も変に糖分摂取を怖がらず、勉強や仕事の合間に若干の糖分を取ることは実は、能率向上の一つのコツなので無いかという気がしている。


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プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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