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2014年02月09日 東京で考える原発ゼロの意味
 今日2月9日は東京都知事の選挙日となっている。

 都知事選の争点は色々話題に上がっているが、その一つに原発政策があり、ある候補者が大大的に公約に打ち出して立候補し選挙選を戦っている。

 まあ選挙なので、どういった結果が出るか分からないが、この都知事選での原発ゼロと言う意味についてちょっと考えてみたい。

 今回の知事選で某立候補者が原発ゼロを口に出したあと、ある国政与党の人間が電力政策は国政マターなので、地方自治体の首長選の争点にするのは可笑しいというような発言をした。

 この発言は一見まともな理屈のように見えるが、私から見るとまさにこの発言こそがいわゆる原発問題の根幹であるような気がする。

 つまり現政権が政権与党であるためには、電力政策や原発は国政マターでなければならず、地方自治体の意志で決められては困るという構造がそこにあるという気がするのである。

 本来東京で消費される電力は、東京近郊で発電すれば送電距離も短い為に伝送ロスも少ないので都合がいいはずであり、地方に原発のような負担を求めずに東京近郊の可能な限り近い場所で発電する設備を作れば自給自足で電気を賄えるはずなのである。

 それを歴代の政権は、わざわざ福島や新潟でつくるような体制にするため、敢えて東京には設置しづらい原子力発電というちょっと危険性を含んだ手段を、資源のない国土だということを名目に国策に据えたのだという気がする。

 そして、原発で電気を作ってもらう代わりにその危険手当とも言うべき名目で地方にお金を交付しているのであり、つまり新潟や福島から東京へ繋がる送電線は、東京から福島や新潟にお金を送るマネーラインともなっている。


 つまりそうやって東京からお金を吸い取るマネーラインを維持することが、与党の地方国政議員が自らの票を守り議席を守ることに繋がっており、東日本大震災で福島原発があれだけ被害を出したにも関わらず、なおかつ原発政策を変えようとしないのもそのためだと思われる。

 もちろん関係議員や関係者たちは「原発は安全だ」とは言うが、実際は本当に誰もが安心感を感じる発電手段ではないからこそ、東京を避けて地方に引っ張って来れるのであり、太陽光発電など本当に安全を感じる発電手段なら地方に置く意味が無く、東京に発電所が置かれお金が引っ張ってこれなくなってしまうので、議席や政権のために国策としてちょっと安全性に不安を感じる原発が敢えて選択されているのであろう。

 TPPに反対する議員にもほぼ同様のことが言え、農業の保護のためと言いながら、実は議員自らの票田維持が最大の目的となっている構造があるわけで、農業保護の観点で言えば所得補償制度など他の手段が幾らでもあるはずなのだが、現政権では票田維持のための価格維持政策がとられている。

 さて、原発が実際に安全か否かという議論はとても難しく、確かに一歩間違えれば破滅的事故を起こす可能性を持った存在とも言えるのだが、先の東日本大震災での女川原発の例に見られるように、事故を起こした福島より震源に近い場所で、より激しく揺れたであろう女川原発には大きな被害が無かったことから見れば、本来は日本の原発は技術的に地震に非常に強い構造をもった設備として完成しているとも言える。

 福島の事故については、未だ正確な事故原因の究明は行われていないが、想定外の津波が非常用電源を破壊した結果のメルトダウンとも言われており、事前に指摘された箇所を改善しておけば防げた事故であった可能性もあるとされている。

 つまり、福島の事故は実は技術的な問題というより人的怠慢による人災である可能性が高いのである。

 それ故に現在各地で行われている原発のそばの断層は活断層か否かの論争は、私からすると日本という地震の多い国土を考えればほとんど意味がないと思えるし、逆に揺れ対策という意味での女川の例を考えれば技術的な心配はそれほどしなくていいのではないかという気がしている。

 現時点ではどちらかと言うと原発の設備そのものの不安より、原子力関連施設をオペレートする人間たち、つまり必要な対策を取ろうとしなかったり安全神話を盾に不誠実な対応に終始する原発関連団体の組織体質にこそ大いに不安を感じるのである。

 さて、そこで都知事選に話を戻すが東京で原発ゼロを考えるということは、原発政策に代表されるような地方の負担に頼った生活、或いは地方を潤すために払うような電気代のあり方について考えることであり、原発が安全か否かという問題は原発ゼロか否かを考える意味では、実は表面的な問題でしかないというような気がしている。

 原発であれ他の手段の発電であれ、今後もし東京で必要な電気を全て東京で発電したもので賄なった場合、地方には全くお金が行かなくなるが、その分だけ東京や首都圏の中で電気料金というお金が落ちて回るわけで、ひょっとすると地方にお金を送らなくていい分だけ電気料金は大幅に下がるかもしれないのである。

 その代り新潟や福島は財政的に疲弊する可能性が高く、結果ますます東京一極集中が起きて、大都市ならではの問題がさらに深刻化することも考えられる。

 東京や首都圏に住む人間として、地方の国政議員の目論みによるところの、敢えて地方にお金を送って危険を冒させて電気を作らせている政策をどう考えるか?それが今回の都知事選で考える原発ゼロ問題だという気がしている。



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2013年12月20日 猪瀬さんの5000万の理由
 東京都知事の猪瀬さんが辞任を表明した。

 言うまでもなく、辞任の理由は医療法人徳州会から受け取った5000万円の件が都政に混乱を引き起こした責任をとってとのことである。

 しかしながらこの5000万円について、都議会でイジメに近い状態で追及を受けてもなおそのお金の受け渡し理由については周りが納得できるような理由が説明されないでいる。

 本人の口からは、最初は政治資金と釈明し、すぐに個人の借入金だと訂正しているが、どうも釈然としない。

 まあ巷では、東電病院の譲渡先選定を巡っての賄賂だとかという説もあるが、当選が確実視されていたとはいえ選挙前の受け渡しであり果たしてそうなんだろうかと思ってしまう。

 一般的に政治家に渡った5000万円という数字を聞けば、誰でも真っ先に私腹を肥やすために金に目が眩んで受け取ったものだという風に見られ易いが、これまでの猪瀬さんの活動の足跡を見れば、彼はそういうお金に流されて受け取ったものとは思えないのである。

 もちろん、人間には誰でも欲があるし、最終的には誘惑に負けることが有ってもおかしくないので、いずれ事実が明らかになれば今回の件も贈収賄事件になるかも知れないが、私個人の印象ではそうではないと映る。

 またお金を送った側の徳州会側の徳田虎雄元衆院議員にしてもかなり特殊な人物であり、確かに選挙時に金を派手にばらまくなど公正な選挙という意味では酷い政治家だが、一方では弟が緊急医療を受けられず病気で死んだことをきっかけに、人口の少ない離島に立派な病院を建ててへき地医療の改善に努めており、人の命のために手段を選ばず行動していた人間で、とても単なる金の猛者と言えるような人物ではない。

 そんな人物から猪瀬さんへ渡された5000万円にどんな意味があったのか?

 私が推測するに、猪瀬さんは都知事になるにあたって、政治家としての自信がなかったことがお金を借りた原因なのかなと推測する。

 猪瀬さんは元々作家であり、石原前知事に気に入られて副知事として重用されていたが、選挙に必要な政治的な基盤や人脈を持つ人物ではなかったという気がする。

 そこへ前知事の突然の辞任により後継者に指名され当選が確実視され、一躍政治の表舞台に直接立つことになってしまったのであるが、ただ猪瀬さん本人にとっては行政には強い意志を持ってはいるものの、政治家としては何の経験も基盤もない状態であり、特に財産や人脈などに関して非常に心もとない不安を感じた中での都知事立候補だったのだと推測される。

 ましてや東京都知事などというポジションは、東京という世界でも有数の大都市の顔でありオリンピック誘致が決まるかもしれないという時で、それなりの品格と政治力が求められるわけで、身の回りの全てに東京の顔に相応しいと箔を求められるような印象がある。

 人付き合い一つとっても内外の要人と会食したりするのに都庁の一役人時代とは、比べものないくらいに格が要求されるわけであり毎回の支払額が一桁以上あがりそうだと感じるのは想像に難くない。

 ましてや石原さんの華麗な交流をそばで見ていただろう猪瀬さんにとっては、そのあたりのプレッシャーは非常に大きかったのではないかと推測する。

 そして政治家として生きていくには、万が一の不測の事態が発生した場合、公費を使える状況ばかりではないわけで、表に出せない個人のお金で物事を一時的に処理しなければならない可能性もあるやもしれず、そのような場合長く政治家として生きてきている人たちのような人脈がないため、事態を乗り切るための個人で自由に使える予備金の保険が欲しかったのだという気がする。


 そこで、石原前知事が親しくしていた徳田氏という人物を紹介してもらい、緊急時に表に出さずに個人のものとして使える予備の裏金として5000万円を、頼み込んで貸してもらったのではないかという気がする。

 確か猪瀬さんから徳田氏側に要求された額は一億5000万円ということと報道されており、あの5000万はとりあえずの最初の分で、使わなかったら還すというやりとりがあったと聞く。

 よくまあ無利子でそんな大金かと思うが、徳田氏にとって盟友石原さんの後継者であり、信用できる人物だと思って貸したのかもしれない。

 猪瀬さんはこの件が明るみに出た時に、最初に言った言葉は選挙資金ということであり、その後政治資金規正法に引っかかる可能性があると気づいて、選挙後の生活に不安があるから個人の借金だという言い訳をしており世間からは信じられていなかったが、今になって思うと実はそのままの言葉だったのではないかという気がするのである。

 本来猪瀬さんのような頭の良い作家が本気で悪巧みをする意識が有れば、もっと用意周到に出来るはずであり、逆に発覚してもあのような発言が二転三転するような印象を与えるおどおどした会見にはならない気がするが、今回あまりにも稚拙な受け答えが目に付いた印象があり、想定外の相当な動揺が見てとれる。

 つまり猪瀬さん本人としては今回の5000万円は都知事としての見栄のためのお金であって、やや裏金的な性格を持つ面はあっても、特に具体的な必要性がなければ手を付けずに還せる色のついていないお金だという認識があったところに、想定外の徳州会への捜査のメスが入って、お金の授受が発覚して疑われることになり動揺したのではないかと言う気がしている。

 今後真実が明らかになって、法律に違反する部分があれば猪瀬さんは償わなければならないが、私腹を肥やすための5000万円ではなかったと信じたいところではある。



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2013年10月27日 中国から「おじさん」がいなくなる日
 先日、ラジオを聞いていて興味深い話を耳にした。

 これは中国のことではなく日本の事情について話されていたものであるが、今や日本から「おじさん・おばさん」という存在がいなくなりつつあるという事である。

 もちろん中年の男女が減っているという意味ではなく、両親のお兄さんや弟、或いはお姉さんや妹が存在しない人間関係が増えつつあるという意味であった。

 つまり少子化によって一人っ子の家庭が増え、その一人っ子同士が結婚して子供が生まれても、その子供にとって両親はいても両親の兄弟姉妹はいないわけだから当然「おじさん・おばさん」の存在はいないことになり、更にその子供の従妹などという存在も有り得ない社会となる。

 まあ突然蒸発していなくなるとか、そういう後発的要因が無いにも関わらず、おじさん・おばさんという人間関係が最初から全く存在しない中で人が育つ社会になっていることになり、人の社会関係が大幅に変化している状況になっているのが現代の社会だというのである。

 この「おじさん・おばさん」というのはある意味身内でもあり、一方で完全に家族の人間であるわけでもなく、言わば家族と世間の中間にある存在で、一つの家族が社会から完全に孤立しないように繋いでくれる、社会と家庭内の風通しを行なう窓の様な存在である。

 更にそのおじさん・おばさんに配偶者がいれば、その配偶者の親兄弟の存在を通じて社会への繋がりをさらに広げ、自らの家庭と社会を繋いでくれる役割となる。

 それ故にある面では時々内側まで踏み込んでくるその人間関係は鬱陶しくもあり、ある面で身内の情で助けられたりしてきたのが、一人っ子時代を迎える前の社会の姿であった。

 しかし、最近のようにこういった「おじさん・おばさん」という存在がなくなりつつある人間関係というのは、家族の外はいきなり公衆・公共の場となり、そこは単なる法律的・社会的ルールにのっとった社会平等的な関係しか存在しない場所であり、そこに親戚の情というものはなく、自らが積極的に人間関係を築く努力をしなければ、社会のルールにのっとって粛々と処理される人間関係のみが存在するようになる。

 故にこういった「おじさん・おばさん」の存在なしに育った子どもというのは、親戚が大勢いる環境で育った人間とは社会に対する接し方が大幅に変わってくるという気がする。

 こうやって考えると、この一人っ子社会がもたらす親戚構成の変化は、人の発育段階に対する社会環境の劇的変化といって良い気がするし、ひいては社会そのものが単なる人口減少論に留まらず、人間関係や社会の基本的枠組みに劇的な変化を与える可能性があるのはないのかという気がする。

 つまり、これまで親戚という血縁関係が担ってきた社会の連帯的役割部分がなくなり、今後は全てを公共的な行政機関などが担わなければ社会が成り立たない時代がやって来るのかも知れないということを意味するのである。

 で、ここまで書いたのは日本の状況についてであるが、法律で一人っ子政策が定められた中国は状況はもっと深刻であろうに思う。

 最近の中国ではいわゆる失独家庭と言われる一人っ子を失った家庭の老いた夫婦の問題が、大きな社会問題になっているが、まあそれは過渡的な瞬間的な一つの事象に過ぎず、問題はもっと別の大きな部分にあるのではないかという気がするのである。

 ご存知の通り、血縁主義の強く残る中国の人間関係においては、血縁の関係が何よりも重視されるほどに非常に強い繋がりとなっている。

 しかし、この一人っ子政策によって、単に人口減少や少子高齢化のみならず、中国人社会を強く結びつけてきた血縁社会の断絶をもたらすという気がするのである。

 当たり前だが、上述のように両親に兄妹が沢山いればその兄弟の数だけ配偶者がおり、その配偶者たちを通じて血縁関係が結ばれるわけだから、兄弟が多ければ多いほど親戚は増えることになり、その関係が何代にも渡れば結びつきはさらに深くなるのであって、そうやって中国人達の社会は結びついてきたと思うのである。

 しかし逆に最近のように両親の兄弟が少なければそれだけ親戚関係が狭まることになり、血縁を結ぶ絆の数も減ってくるわけで、最低限2人兄弟いれば親戚は存在することになるが、一人っ子同士だと全く血縁の広がりがないことになり、代を重ねるうちに血縁関係がやがて断絶することを意味する。

 つまりこれは血縁関係で成り立ってきた中国にとって実は目に見えない革命的な社会の変化であろうという気がするのである。

 その変化の大きさ故に、一人っ子時代の進行のその結果によってこの国の人間社会がどう変化していくのか、現時点では全く分からないのが正直なところである。

 今後の中国人社会は血縁社会から地縁社会に移行するのか、或いは公共ルールに基づく人間関係しか存在しなくなるのか?中国から「おじさん・おばさん」が全くいなくなる日、その日を考えるとちょっと怖いものがある。


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2013年09月18日 オバマ大統領の凄いテクニック
 報道から数日が過ぎ旬が過ぎてしまった話題となったが、シリアの化学兵器廃棄に関して米露で合意が行われたというニュースを聞いて、ほっとしている。

 場合によっては第三次世界大戦に発展しかねない可能性もあっただけに、軍事攻撃を行なわずとも事態を収拾できたことが素晴らしいという気がする。

 これはロシアの外交努力が有ったとも言われるが、各種の情報や状況から判断するとアメリカのオバマ大統領の外交駆け引きが功を奏したと言う気がしている。

 まあ、似たような事を昨日日本の識者の方がラジオで言っていたが、決してその識者の受け売りではなく、オバマ大統領が議会に軍事攻撃の合意を取ろうとした時点からその駆け引き手腕は凄いなと思っていたのである。

 まあ今回の流れをおさらいすると、シリアの政府勢力が化学兵器を使って反政府軍を虐殺したとされる時点から、アメリカは常々化学兵器の使用を許さない立場から拳を振り上げざるを得なくなったが、本音としてはシリアの裏にはロシアや中国が繋がっているとされることから、パンドラの箱を開けるようなもので、軍事介入そのものをやりたくなかった。

 しかし、今後の対アラブ対イランを考えた場合に化学兵器の使用を容認する立場は取れず、拳を振り上げる姿勢を取らざるを得なかった立場であったのである。

 しかもイギリスが議会の承認を得られず降りてしまったので、最悪の場合はアメリカが単独で軍事介入しなければならいという立場になってしまい、いよいよ苦しい立場に追い込まれた。

 そこでオバマ大統領はシリアやアラブになめられない面子を保ちながら、事態を打開する方法を考えたのだと思われる。

 そこで取った方策が、なんと自国の議会に承認を求めるという手法である。

 もちろん軍事攻撃についてせめて国内だけでも承認をもらって行動を正当化する狙いを有っただろうが、この判断の一番の目的は時間稼ぎだったような気がする。

 あの時点の軍事介入反対の声が強い世論の中で、国内の議会判断がもたつくことは容易に予想された訳で、軍事介入の成果だけを求めるならさっさと大統領権限で軍事介入を指示することはできたはずなのである。

 つまり本来は、議会の事前承認など必要なかったはずなのに、行動の正当化を理由に敢えてもたつく議会の承認をとろうとしたのである。

 もちろん、これは最終的に軍事行動に踏み切らざるを得ない事態になった時のエクスキューズの準備でもあり単なる茶番であったわけでもない。

 案の定、上院の了承は得たものの下院はもたついて承認を得るには時間がかかることになった。
 
 しかしこのもたつきはオバマ大統領にとっては好都合だったように思える。

 つまりこのもたついた間を利用して、この期間中にあったG20の合間を縫って行われた米露首脳会談などを経て、ロシアに何らかのシグナルが送られ、ロシアによる調停提案の動きとなったという気がするのである。

 もちろん他の関係国にも働きかけを行なっていたかもしれないが、シリアにとって一番そっぽをむかれたくないのがロシアであって、ロシアに調整役を引き受けさせるのが一番好都合であり、結果としてそういう流れとなったのである。

 これによりシリアに調停案への合意を得たため、シリア国内での内戦停止はまだ難しいものの、アメリカの軍事介入を発端として世界が混乱に巻き込まれる可能性は遠のいたことになる。

 ここに面子を保ちながら時間稼ぎをして軍事介入を可能な限り避けようとしたオバマ大統領の凄い政治手腕テクニックを見た気がする。

 これが、某前大統領であったらこんなまどろっこしいことをせず、即軍事介入になっていたかもしれないことを考えると、本当にすごいことである。

 要求を主張して突っぱねることだけが交渉ごとじゃないと、東アジアの国に是非学んでほしいオバマ大統領の今回の立ち回りだったという気がする。

 化学兵器や内戦で命を落としている人のことを思うと胸が痛むが、少しでも無駄な争いを避けるための努力をするのが本当の政治努力だという気がする。

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2013年09月10日 ハッタリ総理と嫌がらせ記者
 もう開催が決まった事なので、多少の事は書いても許されると思うが、先日のオリンピック開催都市選考のプレゼンを見ていて思ったのは、日本の総理は随分凄いハッタリをかますというか、世界中の記者の前でよくもまああんなに堂々と大ウソをつけるもんだなぁという事。

 汚染水に関して言えば、今現在どれだけの量があふれているかなどの数字は全くの推定でしかなく、その量について把握されていないのである。

 また汚染水が完全にブロックされているというのもほとんど不正確であり、希釈されながら海に少しずつ流れ出ているのが実態であり、そのことは日本国内で大きく報道されている。

 また、今まで被ばくの被害が全く出ていないような話も不正確だし、今後万が一、福島沖で地震が再発生したような場合に、原発が暴走しないような状況にまではまだ全くと言っていいほどコントロールされていない訳で、総理の言ったアンダーコントロールというのは酷いハッタリだということになる。

 ただ、こういった一国の首相が海外メディアに向かってハッタリをかます一方で、今回日本招致団に対して、汚染水の質問を執拗に投げかけていたのは実はトルコとスペインの記者だけだったということが伝わっていて、海外メディアの質問とされていた中身はライバル国のメディアによる嫌がらせというか足の引っ張り合いだったようである。

 つまりキツネとタヌキの化かしあいではないが、ハッタリ総理と嫌がらせ記者の神経戦があの場で行われていたようである。

 まあ嘘も方便というか、こんな経過のハッタリで勝ち取ったオリンピックであるが、ハッタリのメッキがはがれぬうちに、つじつまが合うように本当の意味での汚染水管理に全力をつくして欲しいという気がしている。


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2013年08月23日 安易な妥協を許さない決断
 日本のみんなの党の某国会議員Kさんが渡辺代表から出て行ってくれと言われ離党届を提出したことがニュースになっている。

 どうやら他党の連携を巡って意見が対立したということが背景にあるようだ。

 この件に関する評価については、代表の独裁的運営ではないかなど、関係者双方に対
していろいろ批評はあろうが、私から見ると渡辺代表の方が筋が通っているという気がする。

 私自身、特に渡辺代表や彼の政党を支持しているというわけではないが、渡辺氏の立場を理解すれば少なくとも離党した人に対する同情はできないという気がする。

 元をただせば渡辺氏は数年前に自民党にいては議員として筋を通せないないとして一人で飛び出していたような人物であるわけで、その中身はともかく多数派に流されず自分の信条に信念をもって筋を通し、ここまで政治活動を行なってきている。

 もし今回K議員が動いたようにそういった数合わせの論理だけでポピュリズム的に動く生き方の選択を望むならば、自民党を飛び出さないでいたのが一番得であったわけで、それにも関わらず敢えて飛び出して1人でも戦おうとしたような人物である。

 そういう人にとっては自らが作った政党において、数合わせのために選挙対策のためだけに相容れない主張を持つ他党との連携を探ろうとする姿勢は、とても許せなかったのではないかと思われるのである。

 現時点の政権とかにまるっきり遠い段階で、数合わせのためにの安易な妥協を許せば、存在意義自体を問われ何の得にもならないことを彼自身がよく知っているのであろう。

 まあどんな社会でも人間が多く集まれば多く集まるほど、人の数だけ違う考え方があるのは当然で、それ故に色んなシーン妥協が必要な場面が出て来るのだが、そんな中でも「寄らば大樹」的な安易な誘惑に負けず、初心を貫徹するような姿勢は、政策の中身はともかくその本気度は信用できるという気がする。

 今の世の中、選挙対策のためにコロコロと主張を変える政治家が多いことを考えれば、こういった頑固とも言える姿勢と決断は貴重である。

 今の世の中、主張の中身はともかく本気の人間を探すことがまず大変である。


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2013年08月22日 道州制主張の向こうに見える権威主義
 日本各所で検討されてる道州制、広域行政を行ない行政のスリム化のメリットがあるとされるが、どうも某政党の行なうこの主張には疑問を感じ眉唾でこれを見ている。

 確かに、日本で道州制を行なうメリットはそれなりにあると思われ、例えば関東で言えば現在は東京・千葉・埼玉・神奈川がそれぞれの行政区分に分かれて自治行政を行なっているが、もはや現状では生活圏としては首都圏という括りで考えた方がよいわけで、そのため道州制によってこれらをまとめ大きい行政単位で効率よく運営した方がいいという主張は理解できよう。

 しかしながら、これを主張する某政党の行動を見ていると、道州制は単なる手段に過ぎず、本当の要求は単なる国からの権限移譲による国の干渉の排除にあるような気がしている。

 つまり委譲と言えば聞こえはいいが、行政官僚からの権限はく奪による権限集中という目的の実現という方が現実の状況に近い気がする。

 大阪都構想なども同様で、市と府の二重行政の解消による無駄の排除という言葉は一見もっともらしいように聞こえるが、要するに命令系統を一本化して意見が異なる者を排除する権威主義のためのエクスキューズのようにしか見えないのである。

 それが証拠に大阪市立大学の学長任命に見られるような、学内選挙による推薦選出を否定し、権限者は俺だとして恣意的に学長を選ぼうと権限を振りかざす姿は、例えルール上そうであっても、どうも民主主義を否定した権威主義的な振る舞いに見える。

 要するに道州制も都構想も行政の効率化を目指すと言いながら、その実態は道州制で国から権限を奪い、都構想で対立者を排除し、下からのビルドアップも否定し、ただ選挙で選ばれた首長を最大の正義として自らのポジションに全てを集中させようという権威主義指向の形が見て取れるのである。

 道州制自体は住民自治の一つの形として、下からのビルドアップがきちんと実施されるならば求めて良い形だと思っているが、国という足かせを外して権限を強化し、首長が権威主義的に権限を振りかざす為の手段だとするならば、独裁者の誕生を許すだけのような気がしており、その具体的な中身についてはきちんとした吟味が必要なのではないかと私は思っている。

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2013年08月21日 租税回避を消費税で回避
 日本国内で再び来年からの消費税の是非が話題になっているが、まあ個人の意見としては上げないという選択肢は有りえないと気がしている。

 理由としてはやはり、国際的な信用という問題が一番大きい。 

 国が1000兆もの借金を抱えている状態の中、財政再建に向けての手を緩めるようなことをすれば、消費税の引き上げ幅以上に世界から手痛いしっぺ返しを食らうことは目に見えているからである。

 つまり現在の円安で物価が値上がりしているような影響の比ではない影響が訪れるのはほぼ確実であるからである。

 さらに消費税という間接税を強化するということは租税回避をしているような国際企業からも日本国内で経済活動をする限りにおいて、きちんと税金を徴収することが可能になるというメリットがあると思う。

 租税回避をする企業とは、各国の租税課税基準の法律解釈の違いの隙間を縫って、巧みに課税を逃れている企業で、例えばIT企業で有名なG社などは、課税の基準になる役員の会議などをわざわざ役員会が課税の基準とならない別の国に出国して行い課税回避を行なっていると聞く。

 こういった行為は普通の納税者からすれば不平等に見えるが、違法ではなく合法であるため、取り締まることができないのだという。

 そうでなくてもケイマン諸島などタックスヘイブンといわれる税金の安い国に拠点を移して税金逃れをしている企業は沢山あり、香港へ本拠を移す企業も基本的には税金対策の面が大きいのだと思われる。

 こういった企業が、日本国内で経済活動を行なっていないかと言えば、そんなことはなく、当たり前だが経済活動は国内で続いていおり、寧ろG社のように他の企業より隆盛を誇っているのが現実である。

 少なくとも現在の日本国内はそういった租税回避対策を行なっている企業の数だけ、税金を取りっぱぐれている訳である。

 まあ賢い他人が得をしているだけという事なら他人事としてスルーしても良いかもしれないが、それが国の財政に跳ね返り、更には普通の納税者に対する課税強化に繋がるということであれば、見過ごすことの出来ないこういった租税回避企業(個人)達となる。

 そういった税金回避を行なっている国際企業に対して、課税拠点の本拠地云々に関係なく国内での経済活動の規模に応じて比較的平等に課税が出来るのが消費税という手段であるような気がするのである。

 つまり消費税ならば、租税回避企業や国内にいる外国人などからも平等に徴収できるので、課税の不平等感の解消に繋がるのではないかということである。

 ただ、こういった租税回避者に対する平等のために消費税を引き上げるなら、個人所得税の基準はもう少し引き下げるべきだという気がしている。

 日本国内で稼いだ人は、ほとんどがそのお金を国内で消費するのだから、わざわざ租税徴収しなくても消費税で回収できるということもあるし、外国への人的流出を避ける意味でも、税逃れのために国外退出するような所得税や法人税は見直した方がいいという気はする。

 もちろんその引下げ方法もただ単純に一律引き下げするだけでは芸が無いわけで、政策的に控除枠を拡大し経費として認められる範囲を拡げるような形が望ましいという気がする。

 例えば法人税なら国の施策に沿う形で省エネ率の高いエコ商品を導入した場合は控除枠として認めますよとかの姿勢を取れば、経済論理で政策誘導を進めることが出来る。

 同様に個人所得税についても子供の扶養枠などを拡大し、国が狙う出生率の扶養人数がいれば税金が大幅に安くなるような施策を取って子育ての負担を減らし、逆に独身者でいることは高税率であるような税体系にすれば、少子高齢化対策の一助になるという気がしている。

 いずれにしてもただ増税感だけが強調されている消費税問題だが、諸所の状況を鑑みる限りにおいては税率を上げないという選択肢はないという気がしており、その不満を和らげるためのバランスをとった減税対策も必要なのではないかと思われる。


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2013年08月03日 サッカーがもたらす国際関係の光明
 先日行われたサッカーの東アジアカップの関連記事を読んでて、ちょっと気になる印象の記事を見つけた。

 まあ現時点でかの大会のニュースとして注目を集めているのは「韓国のサポーターが試合中に掲げた横断幕が政治的だ」「いや旭日旗が先にあった」だのなんだのと言うこれまで同様の日韓関係のいがみ合い的な記事ではあるのだが、その中に幾つか毛色の違うニュースを見つけたのである。

 どういう記事かと言うと、なんと韓国のサッカー雑誌のサイトの記事で日本の成長を素直に称える記事が出ていたというのである。

 今回の大会は中国を除いて各国ともその国の1.5軍とか2軍と言えるような選手が参加しており、日本もその例に漏れなかったのだが、そんな状態でも日本は優勝し、その試合内容について韓国のメディアが「想像より遥かにレベルが高かった」と素直に日本代表チームを褒め称えていたとのことなのである。

 これまで日韓戦に何かと言うと捻くれた評価や言い訳をしていた印象のあった日韓戦の試合評だが、ここまで素直に評価する姿勢は今まで無かったような気がしており、政治的な言葉が排された表現にちょっと驚いている。

 また上記の横断幕問題についても、サーチナさん掲載の記事によれば韓国のネットユーザーから

「国の恥さらし」、「スポーツはスポーツとして楽しむ姿勢を持ってほしい」「サッカー場で政治、歴史は自己満足に過ぎません。世界的にはむしろ嘲笑を浴びる行為」、「スポーツと政治、歴史問題は別であることは、すでにロンドン五輪のサッカーの日本戦の時にみんなよく分かったんじゃなかったの?」
(以上【韓国BBS】韓国サポーターの横断幕問題、「国の恥さらし」から抜粋)
 と自国のサポーターの行動を批判する声が上がっていたという。

 さらに韓国日報もこの件について旭日旗と横断幕の件を平等に扱い「両国とも成熟必要」との趣旨の記事を載せていたという。

 まあ日本側からすると旭日旗の件に関しては、旗自体が元々禁止されているものではないし、掲げていたのは日本人ではなく悪ふざけをした韓国人の所業との噂もあり「両国とも」と言われてしまうのは納得しづらいものがあるが、まあそれは自国側の面子を立てたとも考えられ、ともかくこのように自国の過激な行動を諌める論調が韓国国内に芽生えてきたのはこれまでに無かったことのような気がする。

 つまり、これまで「抗日無罪」とも言われていた韓国国内論調が、例え日本が相手でも「サッカーと政治は別物である」という冷静な意見がきちんと表だって出て来るようになったようなのである。

 このことは私から見ると韓国社会の一つの成長と言う気がする。

 もちろん、これは一部の人間がサッカーと政治が別物という区別が出来るようになっただけで、韓国全体の日本に対する政治的主張が改まったわけではなく従来の政治主張はそのままであるのだが、少なくとも何でも抗日無罪ではないという冷静さが生まれており、つまり以前には無かった国際的な常識感覚が生み出されているような気がするのである。

 まあこういった冷静な視点が韓国全体の論調となるまでにはまだ暫く時間がかかると思うが、少なくともサッカーの試合に関してこういった論調が出てきたということは、今後の日韓関係にとって一つの良い兆しの様な気がする。

 現在の日韓関係には慰安婦問題や戦前の未払い賃金請求問題など、幾多もの難問が山積してはいるが、冷静な視点で物事を解決しようとする意識が高まれば、そういった問題もいずれは解決できるような気がする。

 今回の東アジアカップの大会で日本代表が成長を見せたことが、実は国際関係の改善にも光明をもたらした、そんな気がしている。

 さてさて中国との関係はサッカーで変えられるだろうか?

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2013年07月30日 被害者の心理と言動
 先日、某お笑いタレントの男性が女性から強姦被害を訴えられていた裁判で、被告の男性側の言い分が認められ、お互いの合意の下での関係だったとの判断が下されたとのニュースがあった。

 まあ、この事件の詳細を確認した訳ではないが、訴えていた被害者側の言い分と言うか言動を見ていると、明らかに男性側に訴えられているような内容はないなという気がしたので、判決は妥当だったのではないかと見ている。

 何故なら、私の偏見かもしれないが、強姦の様な辛い被害にあった女性はその事実を消してしまいたい心理の方が強く、今回のように相手を強く攻撃するような言動は取らないような気がするからである。

 相手を強く攻撃するということは、相手を傷つけたい、事件の仕返しに相手にも傷跡のをしたいという心理がその根底にあるのだが、このような相手に跡を残したい心理反応というのは性犯罪の被害者心理とは相反する面がある気がするのである。

 性犯罪の被害者は恐らく、全てを無かったことにしたい、忘れたいというのが心理であるような気がしており、それ故に加害者にでさえ、その跡が残って欲しくないと思っていて、本来は裁判にさえ出たくない場合が多いという気がする。

 故に強姦を訴える女性の多くは周囲の協力の下で被害届を出しており、原告側の強い主張があったとしても、それは本人を気遣った周囲の人間の主張であり、そのあたりは裁判関連の記事の文脈を見ていると微妙な差があることがわかる。

 逆に本人自身がこういった攻撃的な言動を取り、犯罪行為だと訴える行動は、相手に自分を認めさせたい、相手には自分という存在がいたという証拠を残したいという愛情の裏返しの憎しみの心理なのではないかという気がする。

 もちろん単なるお金目当ての美人局の場合もあるが、そうではない場合は元々愛情が存在していたのに別れた事実を受け入れられず、裏切った相手は許せない、傷つけてやれといった自らを正当化する為のエクスキューズとして相手を攻撃している気がするのである。

 それ故に冒頭のお笑いタレントの裁判の件は、原告側の主張がかなり攻撃的だったため、少なくとも最初は合意の下での関係が成立していたのだろうという推測が成り立つのである。

 このことは、実はかの柔道の某金メダリストの事件にも言え、あの裁判の一審では無茶苦茶な判決理由で被告は有罪となったが、私の推測では合意か強制かの判断で言えば当時は合意の下での関係であったと推測し、問われている準強姦罪の罪に関して言えば無罪だと感じている。

 そのくらい原告側の言動が攻撃的であるように感じ、実際報道で伝えられている2人の行動には強制的な関係だったと判断するには矛盾があると言われている。

 恐らく原告の女性は、被告と愛情関係を結べると思って行為に応じたのに、その直後に他の女性の部屋に遊びに行ってしまうほどの遊び人だと知って、裏切りを感じたのであると思われる。

 女性からすれば愛情の詐欺にあったようなものだが、結婚の約束をしたわけでもなければ自由恋愛の世界では、なかなか裏切りに対する仕返しをすることが出来ず、それ故に関係を強制されたと主張になったのであると推測でき、かの強い主張が出て来たのだと思われる。

 ただまあこのように、法律上の事実関係の点で言えば犯罪は成立していないとの推測はできるのだが、現実的に被告の行なってきた行為は社会マナーに反すると非難される行動であるのは間違いない。

 それ故に既に被告の社会的地位は失墜しており、もし上告審で無罪が認められたとしても今後日本の社会の中で生活するのは困難であるという気がしている。

 であるならば、現実の事実はどうであれ、この件に関しては一度服役したという状況を経てから社会復帰したほうが彼の為でもあるかもしれないという気がする。

 このように本来は攻撃的になりにくいはずの性の被害者が、攻撃的な主張をするというのは何処か事実に矛盾があるという気がしている。

 そういう点で言えば現在も問題になっているかの慰安婦問題も同様で、慰安婦の苦しみを訴えて銅像などを建てて後世に残したいと言う行動は、一般の性被害者の心理傾向から考えればどこかその心理に矛盾があるように感じるのである。


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プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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