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2009年06月30日 日本退職3周年
日本の会社を退職して、今日でちょうど3周年。3年というと長いようで意外とあっという間だった気がする。
3年前退職時にもらったボーナスを使って買ったVAIOは、今も健在である。というかこれがなければこの3年間は何もできなかったのではないかと思うほど頼りきっているし、
ほとんどそばを離れたこともない恋人のような存在だ。
 3年前に比べ年収は1/3まではいかないが、確実に半分以下だ。
まあ日々努力しているお陰で、最近浮上の兆しは若干見え始めている気はするものの、思ったような結果にたどり着くにはもう少し時間がかかりそうな気がする。今のままでは安定して自立した生活を送っているとは言えず、親にも友達にも迷惑をかけてばかりいる。3年間、いろんなことの基礎を固めることに時間と労力とお金を費やしてきたが、まだまだ結果にはなってかえってきていない。
 またそろそろ今までのように、一人で努力してても、一人でやれることには限界がある気がしており、もう少し周りを巻き込んだ動きをしていかないと本当の力になっていかない気がしている。
 3年前、このVAIOを買いに秋葉原に降り立った時、偶然にもあるストリートバンドがそこにいたことは今でも忘れられない。ある事情があって、品川駅の前で毎晩耳にしていたそのバンドが、その時のその曲を演奏していた。
 そういう運命的な流れを持って今この上海にいるのだと信じたい。


2009年06月24日 意気に感ず!?石原都知事の東京オリンピック招致
2016年のオリンピック開催都市決定まであと100日を切ったそうである。
最初に石原都知事がこのアイデアを掲げたときに、単なるパフォーマンスのアドバルーンだと皆が笑っていた。
しかし彼は最初っから本気であったようで、国内の他の候補地との争いを勝ち抜き、更に世界の他の候補地と戦うべく着々と招致計画を進めてきた。
最後の追い込み時期になった現在でも、石原知事は手を緩めず真っ直ぐ進んでおり、世界のオリンピック委員を説得すべく交流工作に世界中を飛び回っている。
挙句の果てに皇太子まで担ぎ出そうという意見まで出るのだから、その本気度が伺える。
税金の無駄遣いだの、今更意味がないだの今でも反対の声をあげる人は少なくないが、賛同する人も徐々に増えてきたように思う。
 上海の日本人の間でも、都民の会などで招致活動を盛り上げていこうという声になり、応援の声は増えてきている。
 事の是非はともかく、知事という一人の人間にこれだけ熱心な行動をされると人間はその熱意に心惹かれる部分がある。心打たれるといったら大袈裟かもしれないが、少なくとも真剣に物事に取り組む相手には真剣な姿勢で相対さねば失礼であり、その真剣さを否定するほどの理由がないならば、相手の心を認めてもいいのではないかと感ずる。つまり「意気ニ感ズ」という心境である。

 昨今の日本は、余りにも物事がシステマチックに完成しすぎており、お祭りなどのイベント事に対しては商業的な目的のほかは、余程の大義名分がない限り無駄遣いの声が上がりやすく、新しいことが行いにくい社会環境になっている。
 特にオリンピックのような大イベント招致に関しては、単なる商業的な目論見だけでは突破できるような状況にないのが今の日本の社会である。言い方を代えると、自分たちの力を冷静に判断しすぎて熱く可能性を追い求めることを諦めたり忘れたりして、夢を失っているのが今の日本である。
 石原都知事はそういう凝り固まった日本の社会だからこそ、オリンピックのような風を再び東京に吹き入れて、新たな活力を生み出すきっかけにしたいのではないか?
そう感じる。
 今ある反対意見というのはそういう凝り固まった社会から出る意見がほとんどのような気がするし、そういったことが分かっているから、数々の反対にもひるまずに前に進んでいるように思える。
 オリンピック招致というやり方が賢いのかはよく分からないが、反対意見がある事を分かってて、敢えて旗振り役を買って出たのは勇気ある行動だと思う。

これから人口が減少し、活力が徐々に失われていくと予測されている祖国に、オリンピックという刺激を与え、その衰退カーブを少しでも食い止めたいのが彼の気持ちであるように思う。
 また私自身も中国に来て、昨年の北京オリンピックを見て、あの活力を羨ましいと思いつつも、中国の国としての子供っぽさを馬鹿にしていた自分がいる。
 もし、日本で再びオリンピックを行なうことが叶うならば、北京のようなみっともないオリンピックではなく、それなりの活気を保ちつつ、もっと世界に対して大人の振る舞いのできるオリンピックを、日本なら開催できる、そう感じた。
 そういった成熟した大人の国のオリンピックを是非今の中国の人たちに見せてみたいし、金メダルだけがオリンピックじゃないんだとそう教えてあげたいと思って昨年の北京オリンピックを見ていた。
 石原さんの熱心な行動を見るに連れ、私のそういった想いが再び思い起こされ、彼を支持してもいいかなと、そういう気持ちに最近なった気がする。


2009年06月22日 月曜に休むな!
 日本の会社にいるときよく言われたのがこの「月曜は何があっても出て来い」ということ。
 月曜日、つまり前日は休日の土日であったわけで、仕事に備えて休養するというのが本来の休みの意味であり、週末に遊びまくり月曜日に疲れを持ち越して、体調を崩し休むなどということは言語道断であったわけである。
 故に月曜に体調を崩すというのは自己管理能力を問われ、会社の人物評価としてはほかの日を休むよりマイナスポイントが高い。
 もちろん、予め仕事を手配した上での計画休暇についてはこの限りではないが、例え計画的な休暇であっても、やはり一週間のはじめに会社にいないというのは少々印象が悪い。何故なら週末には予定外の状況の変化が生じやすく、その対応に追われるのが月曜だからである。それが客商売の仕事であったりするならなおさらである。
 故に月曜に休まれてしまうと、周りの同僚に負担がかかってしまい、それが続けば自分勝手なやつだと評判も低くなりがつちになる。  
 まあ病気は日を選んでくれないので、止むを得ず月曜を休んでしまうことは仕方なくお互い様といえなくは無いが、やはりできることなら月曜を休むことは極力避けたい。それが中国であっても会社で働くときのマナーのように思える。
 


2009年06月17日 ぼったくり?協力会という看板を掲げる事業
先日一度ブログにも書いた通り上海には協力会や勉強会という名の元、情報交換会として中小企業の経営者などを集めて多くの会合が開かれているが、どうも会費として集めている費用と、提供しているサービスの価格バランスが取れていないような会が存在する。
予め企業が事業として開催しているのであれば何の問題も無いが、協力会など一見非営利活動にみえるような看板を掲げているのに実は会社事業であったという会が存在するので性質が悪い。
 私が知っているある会は企業の総経理、副装経理しか参加できないことをウリにしているようだが、集まっている会社はほとんどが出来立ての中小企業であり、その他の日本人会合とその質においてあまり差が無い
 また自主運営的な看板を掲げているが、実質的には主催者の会社の管理運営となっていて、集められる会費の発票の発行者はこの会社のものが使われている。
 この会社の発票が発行されているということは、つまり、会の収入は全てこの会社の利益になっているという意味であり、その対応から見て、この会社がこの会費収入を「会」の費用として別立てでプールして管理しているとは考えにくい。

 また会のホームページというものも存在しており、「特別会費」という名の下に、費用を取ってホームページにバナー掲示を行い、ページ作成費に充てているとされている。
 しかしその作業も実は主催者の会社内で行っており、結局は会費に名を借りた自社の利益のための作業受注の状態になっている。「特別会員」がたくさん集まらなければホームページは赤字だと主催者はいうが、もしその数が集まったときの総収入は、現在のホームページの制作費相場を遥かに上回る費用になり、とても「赤字」という状態ではなく、先の作業費も含めてほとんどがこの会社の利益になる。
 つまりは「会費」ではなく、バナーなどのネット「広告費」としてこの会社に費用を払っている状態になっているのだが、広告費として考えたとしても、参加者の人数やアクセス数を考えると相場を遥かに何倍をも上回る金額で、とても普通の広告会社が掲げられる金額ではない。結局は、ほんの少しのメリットのほかは、特別会費の名の下にこの会社に寄付をさせられているような状態である。
 これが予めこの会社の事業として看板が掲げられ運営されているものなら納得も出来るが、共同運営の名の下にこの会社が大きな利益を稼いでいるとなるとちょっと裏切られたような感覚になる。

 また特別会費を払わない普通会員とされる会員も参加できる会合の飲食費用も、どうも参加者が支払う金額とお店に支払う金額に差がありそうで、その差をポケットに入れている様子がある
 まあ一般の会合でも、幹事の役得が存在することは良くあることで、取り纏めの手数料として幹事に幾らかの役得があってもそれは暗黙の了解で、今更目くじらを立てることでもないのだが、上述の会は表向きの事務運営費として参加会費の中から費用を取っているにも関わらず、更に裏で二重に間を抜いているような点が見えておりちょっと悪質だ。一人当たりは大した金額ではないにしろ、善意の信用を裏切られたようで日本人としてはちょっと気分が悪い。
 なぜ、このような状況があることを知ったかというと、実は無料の普通会員としてこれらの会に参加していたのだが、会場となっている飲食店の通常の料金より会費が高く設定されていたので、その点の質問と、会として上記の制作費関係の透明化を主催者にぶつけたところ、いきなり「お互いに仕事で忙しいですから、何回繰り返し説明する時間も必要もありません。申し訳ありませんが、ご理解ができないなら、退会してください。」とメールが来ていきなり会員名簿から削除されてしまった。どうやら図星だったようである。

 参加されているほかのメンバーは、このような主催者の目論見を、貴重な交流機会が存在するための必要悪として、その負担に目をつぶる人もいるかも知れないが、それも程度問題と、人間としての誠意の問題である。
 ましてやそのことにすら気づかされず、自社の利益を思いながら、せっせと主催者に利益を注いでいる中小企業の経営者がかわいそうでならない。



2009年06月15日 日本で11年働いたという経験の価値
 私は日本で日本人として生まれて、日本の学校に通い、卒業したあとそのまま日本の会社に就職したわけだから、日本で働いた経験があるというのは当然というべきか、意識してそういうキャリアを積んだわけではない。
 故にそれを改めてヴァリューピースとして切り抜かれてしまうととっても違和感があるのだが、こうやって外国へ来て見るとそうやって働いてきたことが一つの価値を持っていることに気づかされる。
 まあこれだけを持って求職活動をしても大した評価にはならないと思うが、実際に中国で働いていると、「仕事をする」ということに関して周りとの相対的な経験値の差が分かってしまう時がある。
 私は30代になってから中国へ来たのだが、上海に来ている現地採用の日本人は20代そこそこで中国へ来てしまっており、例え日本で働いたことがあるといってもせいぜい3年程度の経験でしかなかったりして非常に浅いものだ。
 言葉の能力の面や行動力の面では彼らに一歩も二歩も譲るが、「仕事をする」という意識の上では、まだまだ彼らは青いなと感じる部分がある。
 特に若いうちから中国に来てしまっている人は全般的にルーズな中国のビジネススタイルに慣れきってしまう場合があり、日本人といえどもどこかルーズな感覚が身についている。


 仕事の締切りに対する意識や、先の見通しの立て方や計画性、客先の難しい要求に対する応対など、お金をもらって仕事をするという価値の意識が弱く、お客の存在や会社全体の利益を忘れた仕事の仕方になってしまっている。
 そういった点が特に顕著に目立つのが、仕事の締切りに対する対応である。
期限をまたいでしまうこと自体、日本でもあることだが、日本だとその時点で説明がある。説明がなければ相手が説明を求めてくるというのが通常の対応だが、そういった仕事の基本的な「イロハ」が中国では一歩二歩くらいルーズになっている。
 それがお互いの習慣で慣れっこになっているので、例えば締め切り1ヶ月も遅れてしまえば別だが月を数日跨いだくらいの話は許容範囲になってしまっていて厳しい問い合わせをすることはまずない。
 日本だと1日でも遅れると担当者の責任問題になってしまうのだが、大手の外資系企業などはともかく、それほど大きくない企業だと管理側も含めて総じて中国的なルーズさがある。
 私も中国に来て3年が経ち、生来のルーズさも手伝って中国的なルーズさに流されそうな面もあるが、少なくとも仕事そのものを放ったらかしで無責任に忘れ去ってしまうことはなく、やり終えていない仕事はずーっと心にひっかかって残っていて余裕ができたら失礼の無いように客先に対して後処理をするようにしている。

 そういったお客の存在を意識して仕事をすることが、自分にとっては当たり前の心がけだと思っていても、日本で働いた経験が浅い人はその認識が不足している部分がある。今の中国であればそれでも通じてしまうが、いずれ上海などの大都市ではグローバルスタンダードが広がって、そのルーズさが許されない時期がやってくるはずである。そしてその変化は思いもよらず早くやってくる可能性がある。
 中国的ルーズさに一度染まってしまった日本人にとっては、環境が変わったからといって改めて襟を立て直すことは、中国人のように変化に対する適応力がないだけに、非常に難しいことのような気がする。
 こうやって将来の中国を想像して眺めてみると、日本で11年働いた経験は意外にも大きな価値を持っているかもしれないなと、中国で働いてみて改めて見つけた自分の価値である。





2009年06月14日 久しぶりの料理挑戦
昨日、友人の家の引越しパーティに呼ばれていった。呼ばれていったというよりは手伝わされたのが正解なのだが、まあその友人の会社の若い女性が沢山集まってくるという釣り文句に見事釣られ手伝ってしまった。
 みんなでいろいろ持ち寄るというのが慣例らしいが、お腹にたまるものが集まってくるかは疑わしいので、結局メインの食事はホスト側で作ろうということで、カレーと豚汁を準備することになった。
 たかがカレーとはいえ。中国に来てからほとんど自炊らしいことをしてこなかった私にとっては久しぶりの料理である、日本にいたときは何年も自炊をしていたので、カレーぐらいは余裕であるはずなのだが、包丁を握るのでさえ中国に来てからは記憶がない。そのくらいの久しぶりの挑戦にちょっと緊張した。
 しかし材料の買出しの時点でから、意外とすんなりと昔の感覚を取り戻せつつあった。お客さんは全部で15人程度であるので、玉ねぎはこれくらいの量かな、とかスムーズに買い物が出来る。
 ちょいと苦労したのが肉選び。肉の質も売られ方も全く異なっているので、どれが一番適切か見極めるのに苦労したがデカ目のブロック肉を買うことにした。ただしこれがあとで苦労の元になるとは夢にも思わなかったのだが、、、


 さて、買出しを終えて下ごしらえの段階で、中国人のゲストたちが集まり始めたのだが、米を研ぐ姿を見て「米はそんなに力を入れて洗わなくてもいいんじゃないですか?」といってきたので、「米は洗うのでは研ぐんだよ」と教えてあげた。どうやら食の中国と呼ばれる中国人たちだが、米ひとつとっても随分安易に準備しているようだ。
 大振りの中華包丁も意外とすんなり使いこなせ、久しぶりの玉ねぎの涙などを体験しつつ、大量の野菜を自分でも驚くほどあっという間に裁いた。
ジャガイモの皮むき器は初めて使ったが、かなり薄く皮がむけるので便利である。でも細長く皮の薄い種類には向いているが、日本で売られている小さなでこぼこした形のものはやはりナイフが使いやすい
 順調に進んだようにみえた下ごしらえだが、肉を切る時点で壁にぶつかった。包丁が会わないのがなかなか肉が切れない。ぐにゃぐにゃしてなかなか切り刻めない。ブロック肉を買ってしまったことを後悔した。わざわざ肉包丁を買い求めるわけにもいかず、およそ30分以上かかって肉を何とか一口大まで切り刻んだ。力の入れすぎで腕が痛くなった。お肉屋さんの存在の有難さを改めて感じた。



 さて下ごしらえを終えて、まず肉を炒めた。15人前なるとかなりの分量である。これだけの量は自分で扱ったことがない。さらに野菜が入る。鍋が薄手のものだったので更に時間がかかる。しかしここで妥協してはカレーがおいしくならない。玉ねぎがあめ色になるまでひたすら炒める。15分くらいかかったか?ようやくいい色になったので水を入れた。4ℓのタンクをほぼ丸々使う。すごい量だ。ここからはあとはひたすら煮込む。
 カレーは基本的に煮込み料理だから、この煮込む時間が基本的な味を決めてしまう。調味料はもちろん市販のルーを使うのだが、それは最終的な表面上の味付けに過ぎないので、この煮込む作業がとっても大事だ。
1時間くらい煮込んだであろうか?薄手の鍋なので思いのほか時間がかかって、もっと煮込みたいところだったが、ゲストたちがお腹をすかし始めていることもあって、早めにルーを入れた。
 同時に作り始めた豚汁もいい出来具合である。豚汁は材料も作り方も結構カレーと重なるので同時に作るのはラクチンなのである。


さあ、いよいよ出来上がって皆様に試食いただいた。ゲストのほとんどが中国人達とあって、口に合うか心配したのだが、「非常においしい」と評判は上々であった。日本人の友人もほめてくれた。
 もちろん味付けに関しては市販のルーや調味料を使ってるのであまり天狗にもなれないのだが、久しぶりの料理だったので取り合えずほっとした。
 もっとおいしいく作れる自信もあり、こうやって褒められてしまうと 次ももっと頑張ってみようかなと思うのだが、下ごしらえや買い物、材料管理の面倒くささを考えると自分のためだけに作るのはやはり面倒くさく、食べてくれる人を探すのがまず先決だなと思ってしまった久々の料理挑戦であった。


2009年06月13日 「仕事の旬」
旬は食べ物の季節を意味する言葉として使われることが多いが、仕事にもおいてもやはり旬というものが存在する。その瞬間にその仕事をするとより効果的な結果を出すことが出来るが、逆に、その旬のタイミングを逃せば同じことをやったとしてもほとんど効果が現れない仕事がある。
 簡単な例で言えば、雨が降り出したときに傘を繁華街で売れば買ってくれる人が大勢いるが、朝から降り続いている雨の日に、夕方に傘を売りに行ったところで大多数の人は既に傘を持ち合わせているはすなのでそれほど売れるわけではないのである。
 同じことは雑誌などの記事や広告などにもいえ、例えばボーナス時期に高額商品のPRを行えば買ってくれる可能性は高まるが、旬を外せばどんなにすばらしいPRも意味がなくなる。しかも、旬というのは、その旬のタイミングになってから行動したのでは間に合わない場合が多く、あらかじめ旬の到来を意識して行動できるように準備をしておかなければ、いざのタイミングが来たときに行動できない。花見のタイミングを見計らうあれと同じである。

 故に普段から仕事においては未来の旬を予測して準備する姿勢と、旬が訪れたときに一気に行動する行動力が必要になるのだが、旬を目の前で見つけたのに、準備不足でみすみすチャンスを逃すケースは沢山ある。特に最近チャンスに気がついているのに手を出せないようなことがあって悔しい思いをしている。また他人に頼らざるを得ないときに、その相手が思うように動いてくれなくても、恨みをぶつけるわけにもいかず悔しい思いをしているケースもある。
 日本式なのか中国式なのかわからないが仕事の旬がつかめず年中同じペースで仕事をしている人がいる、それはそれで大事なことではあるが、目の前を旬が通り過ぎるのを黙って見過ごすのはやっぱりもったいないなと思ってしまう。




2009年06月11日 「龍」と「竜」の字の違い
 以前から気になっていて、調べ損ねていたのがこの「龍」と「竜」の字の違い。
どちらも読み方は「りゅう」「たつ」であるし、いわゆる中国の伝説の生物「ドラゴン」のことを指す言葉であるには違いないのだが、どうも使われる場面が異なるような気がする。
 ちなみに中国語の簡体字では「龙」(long2)で統一されているようでこの差はない。
 とりあえずウィキペディアで調べてみると、「竜」の旧字体が「龍」であるとのことである。しかし旧字体であるはずの「龍」より「竜」のほうが起源が古く、甲骨文字的な発生をしているとのことだ。旧字体のほうが新しいとは何のこっちゃと言う感じだが、そういえば「竜」の字はどことなく蜥蜴のような爬虫類的な形をしており、ドラゴンも恐らく爬虫類の一種として考えるとその成り立ちも理解できなくはない。「龍」の字はその後、威厳をつけるために複雑にしたのが起源ということらしい。

 まあとにかくこの二つの字は結局は同じものとして存在しているのが正解のようである。
 一応「竜」のほうが正式な扱いとなっているが、「龍」の字も認められていて当用漢字ではないようだが人名漢字に含まれている。

 さて、このように漢字の起源と意味合いにおいて同じものとして存在する「龍」と「竜」であるが、実際上においてその使われ方にはやはり使い分けが存在するように思う。
特に人名や地名などにおいては「龍」のほうが圧倒的に多い。成龍(ジャッキーチェン)や、坂本龍馬、あるいは香港の九龍半島などは「龍」である。
 坂本龍馬に関しては竜馬と記載しているものあるようだが、恐らく「龍」は「竜」の旧字体であるという整理からと思われ、「龍」のほうが正式のようである。
やはり成立の起源の理由もあってか、威厳や品格を持たせたい人名には「龍」の文字が好んで使われている。

 これに対して「竜」の文字は実際上の生物を意識させるような場面で使われる場面が多い。例えば恐竜は「竜」であり「恐龍」と表記されることはない。首長竜とか古代生物を扱う場合は基本的にみな「竜」が使われ、「龍」が使われることはまずない。
 そのほか地名などに使われる場合は、生物の竜の姿を想像させるような地形にあてられている。例えば栃木県日光にある有名な「竜頭の滝」はそのよい例である。
 また竜巻は生物ではないがその様相から「竜」の文字が使われているのだと思われる。

 このように新旧字体とされている「龍」と「竜」であるが、結局は形だけでなく使われ方もかなり違うという不思議な関係の字である。
 もし中国語の「龙」(long2)から翻訳するならば、仮にどちらを使っても必ずしも間違いとは言い切れないが、やはり使い分けを考えないと違和感を感じてしまうのがこの「龍」と「竜」のようであり、今回は調べてみていい勉強になった。



2009年06月10日 忙しいときほどルーチン遵守が大切
 先月に会社が引っ越してどうもバタバタしてたのだが、どうもそのお陰でルーチン作業が疎かになっていて会社の業績に悪影響を与えている。
普段からルーチン遵守のあまり得意ではない私の会社だが、特に先月はルーチンのペースが守れていなかったように思う。
 引越しなどという大行事が発生したときこそ、会社の業務ペースを保つために余計にルーチン遵守の意識が必要になる。
会社の業務をルーチン化することは、すなわち合理化であり、その流れさえに乗せておけばある程度基本的な面で会社の業務が保たれ業績が保たれる。
業務ルーチンの中身は毎日の作業ノルマであったり毎週のノルマであったり単純なものでしかなく、一人ひとりのルーチンは一見業績と直接結びついていないように思える作業もあるかもしれないが、それは業務を合理化して整理した結果そうなっているのあって、ひとつの会社で働いている限り無駄な業務などほとんどない。
 逆にそこを抑えておかないと会社の業績の根本的な部分に悪影響を与えてしまう。それらのルーチンのペースが乱れれば少なからず全体に影響が出る。
 故に引越しがあったから出来なくても仕方ないとか、ルーチンをこなせないことに対して理由をつけてサボってしまうことを容認してしまうことは、結局業績に悪影響を与えることを容認してしまうことになる。


 引越しなどの会社全体の行事に関わらず、個人的な事情、例えば身内の不幸や、失恋、結婚、出産など仕事に心理的な影響を与える出来事は人生の中でたくさん起こる。人間だからそういう出来事に影響されるのは仕方ないが、そういう時こそルーチンを守るという意識が必要になる。時間が足りなくて自分ひとりで解決できなければ社内の人間に頼むことも出来る。とにかく自分の与えられたノルマを責任を持って自分か他の誰かにやってもらって完遂させる。
そういう意識で一人ひとりが自分のルーチンを守って仕事をやらないと会社は保たれていかない。
 自戒の意味をもっていま猛烈に反省する今日この頃である。




2009年06月10日 中国版100円ショップ「10元ショップ」
中国のほかの都市の事情はわからないが、上海では基本的な生活アイテムに関してはほとんど東京と変わらないものがそろう。
但し、質の面から言えば流通しているローカル製品はまだまだ日本の品質に程遠く、使っていると不満を感じることも少なくない。
また、日本で使っていたちょっとした工夫で便利になっているアイデア商品などはまだまだ手に入りにくい。
例えば米の計量カップなど、ありそうでなかなか見つからないのが中国である。

そんな時重宝するのがこちらの10元ショップである。
私がよく利用している店は中山公園のプランタンの地下3階にあるお店で、どうやら上海市内の他のプランタン各店に併設されているようである。
内容としては日本の100円ショップそのままで、このお店はすべて日本からの輸入品をうたっている。まあ日本の工業製品市場を考えれば、実は日本仕様というだけで生産自体は中国で行っているものが多く混じっているのではないのかと推測するが、まあとにかく日本で買っていたような便利な商品がたくさん売っている。

 例えばソファーのごみを取るための粘着ローラーや、フローリングの床用掃除道具など、生活する上でかゆいところに手が届く商品が並んでいる。
日本では結構当たり前に買えるこれらの商品だが、一般市場でこれらの商品を探そうとするとなかなか見つからない。日本商品を取り扱う某有名店でも買えることは買えるのだが、完全に輸入品扱いになるので値段がやたらと高い。上記の粘着ローラーを、数百元で買ったと友人は言っていた。それが10元ならばすこぶる安い。
もちろん10元=140円として計算してしまうと、日本の100円ショップより割高に感じるが、そこは外国ということでこの程度の差は仕方あるまい。
 とにかく買い物が楽しくなってしまうような10元ショップである。

場所はここ



プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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