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2009年08月31日 名刺10万枚、訪問3万軒のすごさ
 今回の選挙で小池百合子元防衛庁長官を破って当選した江端貴子さんの選挙活動について記事を読んでみた。
 元東大准教授でマサチューセッツ工科大学のMBAを取得したというものすごいキャリアウーマンだが、1年7ヶ月前に民主党の公認候補になってからの選挙活動はひたすら地味ともいえるあいさつ回り戦術であったという。その訪問先数は延べ3万軒近くにのぼり、配った名刺の枚数は10万枚以上だという。1年7ヶ月というのは日数に換算すると約580日ほどだが、その期間に10万枚の名刺を配るというのは尋常なことではない。
 1日あたり200枚ほどの名刺をコンスタントに配らなければ到達できない数字である。私も営業であるので夜の会合や営業先で小まめに名刺を配っているが、1ヶ月に200枚ほどがやっとであり、1年半ほどで恐らく4000枚弱を配った計算になるが、彼女は私の30倍、つまり私の1か月分の枚数を1日で配っていたことになる。
 一日10時間の活動とすれば、1時間あたり20枚の計算になり、3分に1回名刺交換したことになる。もちろんティッシュ配りのようにただ配ればよいわけではなく自分を覚えてもらえるように配るのだから、一人ひとりに丁寧な対応を要求される。
 普段自分が名刺交換という行為をしていて、一日200人の初めて会った人と挨拶をして名刺を交換するという行為が、どれだけ疲れるか想像できるだけに、これを1年半以上も続けた彼女の馬力にはほとほと感心する。



 私はこの選挙区の地元ではないので彼女が地元で従前にどの程度の知名度が有ったかは知らないが、政治家としてはほぼ無名に近かったはずであり、その彼女が知名度として全国区である小池議員を破ったというのは、こういった地味な選挙活動の力が非常に大きいと思う。彼女の得票数はちょうど配った名刺と同じ10万票余りで、単純に言えば配った名刺の数がそのまま票に生きたともいえる。
 確かに今回の選挙では「民主旋風」といわれる追い風が吹いたと言われているが、この江端さんに限らず当選した無名の新人議員さんのエピソード記事を読むと皆さん非常に地味な選挙活動を長期間にわたって行なっている話が伝わってくる。

 たとえ落下傘候補と呼ばれる地元に縁のない人でも、地道に挨拶周りを続け、地元の人脈を広げる活動を続けることによって、地元の人間に馴染まれ選挙に勝利できることが可能だというのが今回の結果であり、単にその場限りの旋風が民主党に勝利をもたらしたと考えるのはいささか浅はかであるような気がする。
 そう考えると解散時期をここまで先送りして選挙期間を後送りにしたこと自体が、結果的に野党側の候補にこれらの地道な選挙活動時間を与えることになってしまい、敗北の原因となったともいえる。

 まあ日本の選挙の結果はともかくとして、地道に顔を広め、つなぎ続けるという行動が、地縁を超えて信頼に繋がっていくということがわかり自分の上海での活動にも勇気を与えてくれた。
 私にとって上海という場所自体がもともと何の縁もない土地であり、完全なよそ者である。しかしながら、知り合った人との関係を一つずつ大事にしていくことによって中国人の友達も増えてきた。
 また日本人に対しても、元々それほど縁の深くない県の県人会でも、こまめに顔を出し顔を繋ぎ続けたことによって、一つの商売の芽に繋がりそうな関係も作れつつある。
石の上にも3年という言葉があるが中国に来てもうすぐ丸3年になる。
 さすがに名刺10万枚を配るまでにはまだまだ相当時間がかかるかもしれないが、今後も地道に顔を広げ、それを繋げる活動を続け、それをいずれ何かの力に変えられる日が来るように頑張りたいと思う。



2009年08月30日 そもそも責任者のとる責任ってなにか?
 これを書いている時点でもう選挙当日になってしまい、いよいよ未来4年間の日本の行く末が決まる。
 だからこのテーマで書こうと思ったわけでもないのだが、首相をはじめ、党首、社長、委員長、学長などなど各組織のTOPはよく責任者などと呼ばれ、何かことあれば責任を取る必要があると言われる。

 しかし、この「責任を取る」って行動って果たして何だろうと時々思う。
 まず思い浮かぶのが「辞める」という行為である。責任を取るのだから当然といえば当然だが、それはただ地位や収入を失ったことに過ぎず、本人にとっては社会的マイナスが生じるかも知れないが、例えばその責任者の行為によって第三者に間接的、直接的に被害を与えたとしても本人が辞めただけでは、被害者にとって何の補償があるわけでもなく、責任をとってもらったようには見えない。

 しかも国の首相などの政治家であれば、政策の失敗により失業者が増えたり国の借金が増えて子孫に重い税負担が残ったりするが、本人は失策であることを認めず、視点を変えて実績であるといった言い方をする。
 また会社の社長なら経営の失敗により従業員が解雇されたり株主が大損したりするが、これをその責任者が辞めたところで第三者の損失が埋まるわけではない。

 まあ民間企業に関しては最近になってようやく経営者の責任について株主代表訴訟などが行われ、いい加減な経営から生まれた損失に対するきちんとした経済的補償を責任者に求めることも可能になった。しかし社員の側にはそういった経営者の責任を追及する場は少なく経営が悪いと社長を訴えたところでほとんど補償金をもらえるわけでもない。


 さらに、国の首相レベルや大臣レベルの失策に関してはもっと深刻だ。確かに失策があれば政権交代という社会的地位の格下げなどの可能性はあるが、例えば失業者が何人も増えたところで、失策と事実の因果関係をはっきり証明することができなければ、首相などを直接訴えて財産補償などを受けられる確率はほぼゼロに等しい。
 特に国費の無駄なバラマキにより借金を増やしてしまったような失策は、例え首相を個人的に訴えて認められたところで、首相自身が個人的に補償出来るわけでもなく一度行われた政治に関しては覆水盆に返らずなのである。
 故に国家レベルで首相や大臣が責任をとると言う意味は、実はその下にぶら下がる人々にとってはほとんど無責任といってもよく具体的な行為や補償など中身のある言葉ではないのである。
 そこをよく考えてみえれば、某政党のいう責任力という言葉がいかに無責任な言葉であるかがわかるし、逆に政権交代に過度な期待や責任を期待することも禁物であることもわかる。

 責任者のいう責任とは結局はかなり無責任であり、頼りきってしまうことは危険で、なんとか自ら身を守るしかないようである。


2009年08月29日 枝葉の議論に時間を費やすな
世の中には会話大好きな人がいて、大事な会議をしているときも、違う論点や枝葉の部分の議論を持ち込んで議論の本筋ではないところに時間を費やす人がいる。
本筋ではない論点が持ち込まれると、さもやその論点が一番大事な論点であるかのように思わされ、時間を費やされてしまう。
 先日も例に出した、「国立メディア芸術総合センター」を今回も例に取ると、これは政府の第2次補正予算として急浮上したものであるが、「意味がない」「無駄である」という反対派の意見に対して、出される意見というのは「これはアニメの殿堂ではない」「ゲームやアニメは立派な文化であるという」という主張が出されてしまう。すると議論はその是非を論点を中心に進んでしまう。
 しかし、ここで議論されるべき本当の論点は補正予算で組むものとして必要であるかどうかである。いうなれば今回の補正予算は低迷する景気への刺激策として組まれたもので、その建物を建てることによって有用な景気刺激策となるかどうかが論議されるべきであって、アニメやゲームの文化性を議論することは予算の目的から言えばなんの意味も持たない。本予算としての国の施策を議論を要する場合は必要な論点かも知れないが、緊急を要する補正予算ではその目的に純粋に沿っているかどうかを議論すべきであり、枝葉の議論に時間を費やすべきではない。しかし現実には国が借金をしてまで行おうとしている施策にもかかわらず、予算の本来の目的を忘れ、とうとうとアニメの文化性を語る人が現れてたりして枝葉の議論に膨大な時間が割かれている。


 しかしこれは国だけの問題ではなく、企業内でも時々同じようなことが起こる。
ある一つの新規プロジェクトの進行に関して本来は「成功させためのボトルネックはどこか」「マーケティングはどうか」「スムーズな業務フローを行えるか」など本来はこういうことに時間を割いて考えることが大事なのに、時々プロジェクトの本筋ではない枝葉の部分に時間が費やされたりする
 たとえば商品に書かれるキャラクターのディティールについてこだわったりするような場合である。そのキャラクターのディティールが、そのプロジェクト成功の鍵を握っているような場合もあるが、単に装飾の一つで全体から見れば枝葉であるような部分である場合もある。キャラクター好きや話し好きの人が加わったおかげでそこに時間を費やしすぎて、肝心のマーケティングが疎かになったりプロジェクト全体の進行が遅くなるようなことはよくある。
 このディティール議論のようにどの部分が大事かどうかの判断はプロジェクト責任者のコントロールセンス一つにかかっているのだが、結局はどんな議論をしていても時間は平等に過ぎていく。
 何がプロジェクトに必要な本質的な議論であるかを見極めることを忘れて、枝葉の部分にこだわっても時間を費やして結局はプロジェクトは成功しない。であれば枝葉の部分と幹の部分を見分けるスキルを身につけ、枝葉である部分の議論に時間を費やさないようにするのがビジネスとしての成功の鍵とも言える。
「枝葉の議論に時間を費やすな」である。


2009年08月28日 「日本選挙祭り」のようだ
海外からだとネットツールなどを通してでしか情報が得られないので、実際のところがどうなのかわからないが、どうやら今回の選挙は政権交代の可能性も高いと見られるだけに非常に盛り上がっているように見える。

特に伝えられている写真だけをみると8月という季節柄もあって選挙という「お祭り」が行われているように見えてしまう。
 今回は帝国議会選挙以来の8月投票らしいのだが、実は8月の選挙だから盛り上がっているのではないかという気がした。8月は日本全国お祭りの季節であり、いろんなことに活気がみなぎり盛り上がる季節である。

 国政の行く末を決める選挙をスポーツに例えては不謹慎だが、格下が格上に接戦を演じて打ち破って上昇していくという図式が非常に好きな国民であるだけに、ずーっと横綱を守ってきた与党をぐんぐん成長してきた新進気鋭の野党力士が破る姿を見るのは痛快であり非常に盛り上がる。かつての貴花田関(後の貴乃花)が大横綱千代の富士を破った一戦もそんな盛り上がりの中で行われたのはまだ記憶に残るところである。
 また8月は高校野球の季節でもあり、人々が白熱の戦いを演じる季節である。有力伝統校がすんなり優勝するより、それを粘り勝ちで無名校が破る試合を、暑さの中の観客は見たがる。
 そんな番狂わせを望む観客が多い8月の舞台、普通のスポーツの試合は選手が戦うだけだが、選挙は観客ならぬ有権者がその勝敗の鍵を握っているだけに余計に不利だ。
 それでなくても与党側は平均年齢が高く、暑さの中の選挙戦は体力の面で不安があり、8月の戦いは非常に厳しい。
 故に今まではそういった体力不安の面や、選挙戦が盛り上がっては困るという与党側の思惑で8月の選挙は避けられてきたのではないかと思うほど、長いこと8月の選挙は行われてこなかった。

 そう考えると、解散のチャンスを幾度と無く先送りしてきた与党は、結局最も分の悪い「8月の熱く盛り上がる選挙」を選択してしまったことになる。
 この8月の「日本選挙祭り」、いよいよあさってクライマックスを迎える。
 


2009年08月28日 10月にサーチャージ復活の模様
原油市場の値下がりを受けて、今年の7月にようやく廃止されたはずの燃油特別付加運賃(サーチャージ)、再び原油費が上昇したのを受けて10月にまた復活するとの報道が流れている。
手元の計算だと、基準となるシンガポールケロシン航空燃料市場の5月~7月の燃油相場の平均価格は1ガロンあたり169.5ドル、これをサーチャージ算定の基礎となる1バレルあたりの金額に換算すると71.2ドルとなる。
この額を日本航空さんの基準にあてはめると、わずかながら70ドルを上回ったために70~80ドルのゾーンBとなり、中国線は日本販売のチケットで片道1500円、往復で3000円の加算となる。
 よってせっかくサーチャージが廃止されたと思っていたのに廃止期間はたった3ヶ月で終わってしまうことになる。

まあこの程度で収まってくれるなら、航空券価格の季節変動の範囲の中に吸収されてしまうレベルなので、それほど気にすることではないとも思えるが、単なる値上げとはちょっと違う要素がこのサーチャージには存在するので気持ちは複雑だ。つまりこのサーチャージは上がった分、搭乗客にとってはマイルに換算されるわけではないし、チケットを販売する旅行代理店にとっても販売手数料増加につながらないのにもかかわらず、値上がった事に対してお客様から文句を言われる役割だけを押し付けられるととっても不評なのである。
 しかも現在も燃料相場価格は高留まっており下落の傾向は見せてくれない。 ちなみに8月の昨日までの平均は1ガロンあたり188.1ドル、バレル換算で79ドルちょうど程度でサーチャージ設定基準でさらに上のゾーンを窺う状態になっている。
 原油の値上がりのついては原因を分析していないので今後の見込みはわからないが、海外に住む我々にとっては生活に直結する見過ごすことの出来ない問題なのでこれ以上値上がりすることのないように祈りたいものである。



2009年08月27日 あさっての方向を向いたリーダー
今回の某政党のマニュフェストに10年後について書かれていた、衆議院議員の任期が4年にもかかわらずである。とりあえず目先の4年に対して何をしてくれるのかを知りたいのに、そんな未来の約束をされても困るのである。にもかかわらず10年後の約束を掲げている。
もちろん10年後も自分は一応生きているはずなので10年後を考えることは大事だが、今日明日について目先に差し迫った現実があるのに、そこを飛ばして10年後のことを言われても現実が見えていないとしかいいようがない。
10年後には夢があるから今を耐えろという意味なのだろうか?
 政治家などのいろんな世界のTOPの人の中には時々こういうあさっての方向を向いたリーダーがいる。多くは二世議員,二代目など這い上がって地位を築いたわけではなく、もともそこにあった椅子に担がれて座った人である。
今日明日の努力の積み重ねが10年後に繋がるのに、いきなり10年後の夢だけ語られても現実味に欠け、本当にこの人は現実がわかって真剣に物事を考えているのだろうかと疑ってしまう。
 誰かのせりふを借りれば、金が無いなら結婚しないほうがいいと言って置きながら、今は金がないが10年後には金持ちになるから結婚しようといっているようなものである。
 今日明日が無ければ10年後なんか存在しないのに、眼前の現実の課題から逃避しているのか、無責任な話を語られても単なるお気楽な夢想家のようにしか見えない。夢想家ならどんなに現実離れした考え方をしても許されるのだが、人々をまとめるリーダーならばあさってではなく明日進むべき方向を示して欲しいのである。それがリーダーの役割で責任なのだから。


2009年08月26日 ハコモノ行政 ハコモノ経営
 日本でアニメの殿堂と揶揄されている「国立メディア芸術総合センター」が今回の衆議院選挙で一つの話題になっている。
 この施設が本当に必要なのかは選挙中ということもあってここでは議論を避けるが、建物の建設が先に決まり中身が後から議論されるというのは日本の行政機関が伝統的にハコモノ行政と批判される部分である。
 本来はそこで動くソフト(中身)からの必要性の要求があって初めて建物が建てられるはずなのに、形を優先して建物の建設を先に決めてしまうので結局はソフト(中身)が空っぽで無駄な投資になってしまう場合が多い。
 よしんば充実した中身を詰め込もうとしても、建物の建設を先に決めてしまっては後から何を詰め込んでも、建物の大きさに対して辻褄あわせに詰め込んだような陳列棚にしかならなく、その建物がそのソフトに対して本当に機能的な存在になるとは思い難い。必要や要求に応じて形をつくるのが本当のハコとしてのあり方のように思える。まあ少なくとも日本の民間企業はそんな無駄なことはほとんどやるまいと思うが行政ではそんなことが繰り返される。


 ところが、「ハコモノ」は日本の行政ばかりではない。中国における経営者の意識も一種のハコモノ行政に近いものがあり、言うならばハコモノ経営である。
つまりどういうことかというと、以前から何度も出す例であるが、中国人経営者が会社を作ると、まず立派なオフィスを用意する、飲食店ならまず立派な厨房を用意する。やれアメリカ製の机だ、日本製の調理器具だというものを準備して仕事の中身や、どんな料理にするかはあとから考えるのである。日本料理店の場合、立派な内装のお店と、高い食材、日本人調理師がいればそれだけで店が繁盛すると思っている。
 つまりハードだけで商売が成り立つと考えている。
 本来はこういうことをやりたい、こうすれば利益が出そうだ、この料理人のこの美味しい料理をお客様に提供したい、そういう理念と要求があってオフィスや店が出来るべきなのに、先に「ハコ」を準備してから中身を考える。結局ハコにあわせた中身になるので、会社やお店がどうにも機能的でなくなり魅力が薄れる。本当に儲かる商売とは自らハコの機能を要求して、ハコを形作っていく。
 つまり他人が作った商売モデルの概念に、見よう見真似で乗っかってみて、取ってつけのハコを用意したところで、所詮モノマネの2番煎じでしかなく、ハコの形の意味するところやその中身がわかってなければうまくいかないのである。
 本来は世の中にある不足や要求を見極めて、商売どころに狙いをつけてビジネスを始めるべきなのに、どうにも中国人は形(ハコ)から入りたがる。
 ビジネスの中身よりまず経営者になり立派な会社をもつために、ハコをもつ。そんな人がとっても多い。
 ビジネスはそんな金儲けだけの単純ゲームじゃないから面白いのと思うのだが、次々に起業する中国人たちにはまだそれがわからないらしくハコモノ経営が繰り返される。



2009年08月26日 意味無い会社の冷房
新オフィスに引っ越してからようやく、快適な業務に従事できる!と思っていたら、どうやらまたもや体感温度格差による被害に逢ってしまい結局は自分にとって快適な環境になっていない。
女性のほうが冷房に弱く、男性の方が暑がりであることは去年のブログにも書いたと思うが、その図式が新オフィスにもそのまま持ち込まれてしまった。しかも女性陣は日の当たらないオフィス内部に配置され、私はというと外部環境の影響をモロに受けてしまう窓側に座している。
 そもそもこの配置自体が間違いではないかと思うが、女性陣の一人に目が悪い人がいて、窓際だと太陽光の影響で業務に支障があるというのでそのグループを窓際から離すために現在のような配置になった。
 そして私の出勤する時間は朝でも既に暑いので、会社までたかが10分ほど徒歩通勤とはいえ、暑くなり汗をかいてしまう。故に会社についた途端ひんやりした空気を求めて冷房を強くする。ところが後からやってくる女性陣は同じように汗をかいて出社してくるものの、冷房の冷気はどうやら苦手のようで、会社に着いて何分も経たないうちに空調を弱めたりすぐに切ったりされてしまう。
 こうなると私のほうはたまらない。まだ汗が完全に引いてないタイミングで空調を切られてしまうと汗が止まらない状態になる。
さらにお昼にかけて気温が上がるにつれて室温も上がり、私は窓際ということもあってどんどん暑さを感じ始めるのだが女性陣は一向に気にならない様子で私だけが汗をかきせっせと団扇を仰ぐ状態になる。
 もちろん外部が暑い日はさすがに女性陣も暑さを感じるようで冷房のさすがにスイッチは入れるのだが、私が納得するような温度までは下げてくれない。結局はまた団扇で扇ぐ。
 そんな暑い状態では結局頭も働かずボーっとしてくる。おまけにパソコンさえも暑さのおかげで動作が鈍ってくる。
 こうなると私にとって会社の今の冷房はは全く意味のない存在でしかない。もちろん全くかけないよりはマシかもしれないが、労働効率の向上にとても寄与しているとはとても言い難いのである。

 そもそも私は家で作業しているときは冷房を非常に強くし、おおよそ24~25度を保って作業している。このくらいの温度が汗もかかず、頭も非常に回転するので都合がいい。もちろんパソコンもフル稼働させても問題ない快適な温度である。故に自宅での作業は非常に能率がよい。そんな環境から会社に出勤しても暑いだけで効率よく仕事をこなせるわけがない。
 つまり夏場は私にとってオフィスに出勤することにあまり意味が無く、自宅で作業したいこと然りなのであるが、会社に所属する身分である故に毎朝出勤している。
しかしながらあの暑いオフィスで仕事をしなければならないと考えると出勤自体が憂鬱でもある。
 なぜ神様は男女の体感温度を平等に作ってくれなかったのか、恨むこと然りである。




2009年08月25日 遅刻魔の言い訳
年がら年中遅刻してくる社員がいる。定時に対して毎回5分か10分程度の範囲なのだが実に出勤日の8割以上である。
まあ遅刻に関しては自分も完璧では無く、1~2ヶ月に1回くらい遅刻があるので、必ずしも強く責められたものではないのだがそれにしてもその社員の遅刻は多い
そして必ずといって言い訳をする、タクシーの運転手が迷っただの、電車が混みすぎて乗れなかった、途中でお腹を壊したなど細かい言い訳をする。
まあ、それらがよしんば全部事実であったとしても、私から見ればあと15分早く行動すればその遅刻の言い訳の8割以上は吸収できて定時前に出勤できるのではないかと思ってしまう。
 つまりそれらの遅刻の「言い訳」は単に自分を正当化するための、周りの対する自己防衛手段でしかなく、本来は本人が15分早く家を出るべきなのに、そうしなかったことへの反省はそこにはない。
 「私が悪いのではない」というスタンスで、物事がうまくいかない理由を周りに求める姿勢がそこにある。
しかし世の中には自分の意にままらない理不尽な要素が必ず一定量存在し、そのことを考慮して日々すごさなければならない。つまり朝の通勤時間帯には、空いている時間より15分程度余分に時間を要する要素はほぼ毎日存在するのであって、そのことを学習予測できないで失敗したことの原因を毎度外部に求めて言い訳をする姿勢というのは結局その本人に問題があるということになる。


 私が遅刻したとき、、たいていは前日3時くらいまで仕事したときであるのだが、、まああまり言い訳をしない。素直に寝坊したと認める。
 家から会社までの距離が近いので「言い訳」が介在できる要素が少ないのも言い訳ができない一因だが、そういった言い訳をする自分があまり好きでないというのもある。
日本の会社に通勤していたとき、時々言い訳をしていた自分がいたが、そのこと自体がものすごく嫌であった。

その社員は言い訳をすることが習慣化しているのか、私の日本時代のように自己嫌悪に陥りながらも脱出できるきっかけが見つからないのかわからないが、もうかなりの期間この状態が続いていていい加減学習して欲しいのだが、社会に対する学習能力があるかないのか相変わらず遅刻してくる。
今のところ特に大きなペナルティも課してないが、あまり甘やかすと周りの社員の士気にも影響するので放置し続けるのもどうかと思い、現在その対応に頭を悩ませている。
できれば外部要因に原因を求めることをやめ、生活習慣の改善が必要なのだということに本人自身に気づいていただき、一念発起して15分早く行動するという習慣に変わっていただきたいのだが、やはりそのきっかけを外部から与えないと変わらないのかも知れないかと思うと少々気が重い。




2009年08月25日 音楽への仕方ない余計なお世話
クラシック音楽をラジオで聴いていると、音響エンジニアの余計なお世話が鼻につくならぬ耳につくことがある。
オーケストラの演奏を生で聴いたことがある人はわかると思うが、コンサートホールでで奏でられる音楽は、最も小さい音量の音と一番大音量の音の幅が非常に大きい。
これを専門用語でダイナミックレンジというのだが、テレビやラジオの音の収容領域には限界があり、このダイナミックレンジが非常に狭くなっている。
 つまりテレビやラジオの信号に乗せる場合、信号の許容範囲内に収まるように音を調節しているのであって、音が小さい部分では音量を上げ、音が大きい部分では音量を抑えて放送の信号に乗せている。
誤解を恐れずに言えば放送の電波に乗せられる段階で音楽は電波の身の丈に収まるように歪められていることになる。
 曲中出力をずっと固定にできるような曲であればいいが大音量から消え入るような音まで激しく変化するオーケストラ曲などでは、ずっと同じというわけにはいかない。大音量のにあわせれば小音量が聞こえず、小音量にあわせれば大音量の部分で音が歪み、下手をするとスピーカーなどの機械が壊れる。
故に曲中に音量を操作する行為なんぞは、ナチュラルな音を聴きたいリスナーからすれば余計なお世話なのだが、仕方なく許容せざるを得ないのである。
 これが放送ではなくCD録音からの直接再生であればこのあたりの性能が格段に違うので、普通の人が高い性能の再生機器を使ってよい環境できけば、このダイナミックレンジの問題で悩まされることはほとんどない。
 しかしこのCDとて、結局はマイクから集音された音を記録しているに過ぎず、その録音段階で音のバランスを取っているレコーディングエンジニア(以下RE)という人の手が入っている。つまり楽器間の音量バランスをとってどのようにCDに記録するかはこのREが握っており、コンサートホールで生で聴く音楽のバランスとは若干違ってしまう。もちろんREとてコンサートホールのナチュラルな感覚を大切にしているはずであるが、ある個人の耳と手によってバランスが取られていることには変わりない。電子機器再生でのリスニングに慣れた人がコンサートホールに赴けば、オーケストラの各楽器がもっと違うバランスで響き、その音が溶け合っていることに気づくはずだ。

 しかもそもそもCDやレコードの録音というのは、クラシック音楽に限らず一つの曲を何度も録音をしたうち、各部分の一番良かったものを使ったツギハギ録音である場合が多い。
 たまにライブ録音として、曲を流しで収録してそのままCDにしている場合もあるが、全体から見ると小数である。故にオーケストラ曲のCDでもじっくり聴いていると時々ツギハギの継ぎ目がわかってしまう場合がある。まあこれも完璧な曲の録音を目指すためには必要な作業なのかもしれないが、生のコンサートのライブな流れに慣れてしまった私にとっては、このツギハギによって音楽の流れにどこか不自然さを思わせられる場合もあり、REさんの善意の作業とはいえ余計なお世話に感じてしまうのである。
 やはり音楽は生で聴くに限る。ああ、上海からサントリーホールにすぐ行ければいいのになぁ。。。



プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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