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2009年08月24日 臭いがわかるようになってきた!
ここのところ、鼻の通りが改善し、副鼻腔炎の症状がかなり取れ、苦しんでいた睡眠時の呼吸もだいぶ楽になってきた気がする。それに油断したというわけではないが薬が切れて以来時間が無く買い足しにも行っていない。
でも今のところ幸いにも悪化はしていない。それどころかようやく嗅覚にも改善の兆しが見えてきた。
 先日、街へ出て牛肉面の醤油の香りや、ローカルの食堂のニンニクの臭いを久しぶりに感じ取れたときは大した臭いではないのに、それを感じ取れたことにとっても感動し新鮮さを感じた。
自分は今までこんなにも臭いがわからず過ごしてきたのかと改めて気づかされた。

 まあまだ比較的強い匂いにしか反応できないので、完全とは言えないが、すくなくとも一時の全く匂いがわからなかった時に比べれば、格段の改善である。
 感覚のことなので、どこまで臭いを感じ取れれば基本的な全快と言えるのかわからないのだが、洗濯物の柔軟剤の香りがわかるようになったり日常の生活にはあまり支障はなくなりつつある。
 もちろん、わかるようになったのはいい香りばかりではない。今住んでいる住宅の階段は少しかび臭いこともわかった。まあこれはこれで嫌な臭いだが今は分かる事が新鮮な喜びになっている。
 あとはトイレの臭いも、、、トイレ自体はさすがに臭ってなく安心したが用を足したとき、便の臭いがわかるようになった。逆に言うと今までは全く分からなかったわけで、自分の健康状態をうかがい知る上でかなりの大事な要素であるにもかかわらずそれを感じ取れなかったというのは実は自分の体の危険シグナルを知ることができなかったということであり、そのこと事態が危険な状態であったというわけだ。
今回戻った嗅覚のおかげで、嗅覚の大切さを感じることになった。
 今まで人間の五感のなかで一つずつ失わなければならないとしたらどの順番ですか?という質問に対し、真っ先に嗅覚をあげていた私だが、今回の件で順位に変動はないもののちょっと気持ちが揺らぎつつある。まあ失ってよい五感など無いということ。
 まあせっかく戻りつつある嗅覚なのでこれに安心せずせっせと節制を続けて、もっと症状を改善し、コーヒーを香りで判別できるようになるまで是非頑張りたい(笑)


2009年08月20日 余分なプライド
中国国内の日本人ではあまり見かけないが、日本や中国人の企業だと、我々は○○グループの会社であると、さも自慢気に話す方がいる。
確かにその会社の総経理であったりすれば、そういった態度もわからなくはないが、そういう態度で話す方の多くは、何のこと無い一介の一従業員でしかなく、その人のおかげでその○○グループができたわけではないのに、さも虎の威を借りる狐のように誇りを持って話をする。
 まあ自分の所属する企業に誇りを持つことは悪いことではないが、その企業の看板というのは寄りかかるものではなく、必死になって守るものである。
その企業にいる時点で既に企業に守られており、それ以上よりかかることは企業に負担になるだけで、結局は企業を弱くする。
 それを勘違いして、ただ寄りかかってあぐらをかいている人がいかに多いことか?

それは企業だけではなく、日本という国の信用も同じことで、日本人であることで高給であったり、優遇されていることを当たり前のように享受し、それをさも特権であるかのように振りかざす。そうやっているうちに、日本という国は借金だらけになっており、実質的な能力は非常に低下しているのに未だに過去の栄光にすがりついて、今までの振る舞いを繰り返す。

 我々は○○会社の社員である、○○国の人間であるということが、そうでないこととどれだけ違うというのであろうか?そんな余分なプライドは邪魔なだけの気がする。
どうしてもプライドを捨てきれないというなら、プライドに見合った中身を保てるよう必死に守るべきで、寄りかかることほど馬鹿な真似はないと思う。


2009年08月19日 茨城空港と独立意識
先日、茨城空港の開港に関して反対意見があるとブログに書いたが、これは茨城県民が自分の県をどう位置づけているかと考えていることに拠る部分が非常に大きいと思われる。
 つまりどういうことかというと、茨城県を一つの独立した地方県あるいは北関東の一地方と捉えるか、東京に属する首都圏の一部として考えるかによるところである。
東京に対する独立心が強ければ、たとえ同じ関東内に羽田、成田という2大拠点空港を抱えたとしても、そのアクセス性の悪さを理由にどうどうと空港の必要性を訴え、
東京ではない茨城県として、他の地方、関西・九州・北海道と向き合うためのツールとして空港を持ちたいと考えることは不思議ではない。
 特に県という機関は、その組織は他県と対等であるため県としてどうしても独立性の強い考え方を持つことになる。

 しかし、今回の反対派の県民の意識の大半はそうではないと思える。つまり茨城県を東京首都圏の一末端と捉えているのである。県の南部は完全な東京への通勤圏であり、県庁所在地の水戸の求心力はそんなに高くなく、意識は完全に東京に向かっている。独立のラジオ局はあるが、日々の生活は完全に東京発信のテレビを見て過ごしており、意識文化は東京圏の一部となっている。そんな県民に外国人にあなたはどこに住んでますかと聞かれたら、迷わず「東京の近く」と答えるであろう。
 それでなくても普段から東京に異常に関心の高い県民性で、女子高生の流行は渋谷の次に水戸へ派生すると言われたり、映画「下妻物語」にみられるように東京へ憧れが強く、かつ従属意識の高い県民性・地域性である。


 そんな茨城県に新しい空港を作るといったところで、「首都圏の地元にはもう2つも空港がある」という反応になるのである。決して今まで茨城には空港がなかったとは言わないのである。
 その辺の県民性を理解してからなのか、昨年空港側も戦略転換を行い、英語表記として「トウキョウメトロポリタンイバラキエアポート」という東京への帰属性を意識した名前をつけた。
 つまり茨城空港は一地方空港ではなく「東京の空港」であるとの主張である。
 この名前に関しては国内からは「長すぎる」とか「茨城は東京か?」とか反対の声がたくさん出ているが、ローコストキャリア(LCC)向けセカンダリー空港としての差別化を行い、意義付けを持つことによって、茨城を東京圏の一部と捉える人に対してはそれなりに有効であったようで、空港に対する意識変化が見られている。

 つまり地元の空港は要らないが、東京の空港としてなら引き受けても良いという、東京から価値を認められたいという県民性が強く作用して空港受け入れに前向きな反応が出てきたのである。
 それは県内だけでなく、同じ首都圏内からも同様の反応が増えてきており、私も印象を変化させた一人である。
 まあ他人本位の評価で左右されてしまうのはちょっとな情けない気もするが、個人的にはそれで空港が無事それに開港にこじつけてくれるならよしとしたい。
 選挙の行方によっては空港の開港等に影響があることも予想されるが、茨城県の空港ではなく、首都圏の空港として「海外で働き千葉県に家がある私」からも是非空港の開港を歓迎したい。



2009年08月17日 予定が狂った。
数ヶ月前くらいの予定では、今週あたり悠々自適に夏休みをのんびりとっているはずだったが、仕事などもろもろの都合でとてものんびりできる状態ではなくなった。
まあこうなった責任は自分にもあるので誰にも恨み節をぶつけるわけにも行かないが、この半年くらいは仕事が頭から離れてのんびり休めた記憶がない。
 もちろん全く仕事をしなかった日もそれなりにあるが、体調を崩して全く動けないような状態だったり、睡眠不足が重なって思考が動かなくなっていたような日なのでとても休日を謳歌したとは言いがたい。
 夏休みという言葉が非常に恨めしく響く。このまま某首相のように僻みっぽくならないよう気をつけたい。



2009年08月14日 山城新伍さんの思い出

一昨日、俳優の山城新伍さんが亡くなったとの訃報を耳にした。
実は一昨日の「24年前の記憶」というタイトルのブログに、日航機墜落の翌日にハワイへ旅行に行ったことを書いたが、実はこのハワイ旅行というのは山城さんの司会するテレビ番組の優勝の賞品だった。
 つまり彼の司会するテレビ番組に出場し、優勝してゲットしたのが「ハワイ旅行」で、その旅行の前日に日航機が墜落し、あのような大惨事であった。

単なる偶然かもしれないが、24年前の記憶を思い出したその日に山城さんが亡くなっていたというのは偶然というには出来すぎなくらい因縁を感じる。虫が知らせたのであろうか?
 実は彼と私にはちょっとした共通項があった。それはここでは書かないが、それゆえ彼の司会する番組に出場したとも言えるし単なる一有名人ではない親しみを感じてテレビの中の彼を見ていた。
 結局本人に会ったのはそのテレビ番組に出た一度だけだが、多感期の思い出であるだけに、その記憶も先の日航機の墜落の事件ともに残り鮮明である。
握手をしたとき手が大きく温かったような記憶がある。おどけてひょうきんなキャラクターはテレビそのままで色んな意味で人間っぽい人だった。

 そんな彼が亡くなった。

24年といえばほぼ四半世紀で、まあ彼も私もそれだけ歳をとるわけで、時期が来れば順番に亡くなってしまうのは仕方のないことであるが、当時あったもの、生きていたものが徐々になくなって思い出だけが残っていくのは少し寂しい。
 故人のご冥福をお祈りしたい。




2009年08月12日 24年前の記憶
もう24年も経ってしまったんだと改めてびっくりするが、忘れられない「事故」がこの日起きている。
かの日航ジャンボ機墜落事故である。身内が亡くなったわけではないがその記憶は鮮明だ。
 翌日の海外旅行(サンフランシスコ経由ハワイ)を控えてうきうきで過ごしていた自分だったが、
6時40分ごろニュース番組にニュース速報のテロップが入ってきた。
「羽田発大阪行JAL123便が消息を絶った模様」
この瞬間の驚愕の気持ちはいまだに忘れない。その瞬間にえもいわれぬ悪い予感に襲われたのを覚えている。
この文明万能の時代の、しかも日本で飛行機が行方不明になるような事態が起きるなど想像だにしなかった。
東京―大阪間といえば日本の発展の象徴のような区間であり、そんなところで飛行機が行方不明になんぞなりようがないと信じていたからだ。
 それが現実に起きていた。
 そのニュース速報の瞬間からずっと焦燥感に襲われ続け、ずっとテレビにかじり付けになった。

まずなかなか機体が見つからなかった。バミューダトライアングルのようなミステリーも一瞬頭を翳めたが、そんなこと東京ー大阪間で起きようが無い。
 夜中に群馬と長野県境で何か燃えているという情報が入った。でもなかなか現場にちかづけず、どういった状況なのかまるっきり把握できなかったが、とにかく墜落したことは確かなようだ。
 ニュースで読み上げられる乗客名簿の名前に聞き入りながらずいぶん遅くまで、、、結局何時に寝たのか覚えていなく、、、完全な徹夜はしていないはずだがほとんど眠れなかった。そして朝になってテレビ中継でたった4人生き残った乗客が助けられる姿を目にした。
 そんな衝撃をそのまま抱えながら、サンフランシスコ行きの飛行機に乗り、ハワイでの休暇を過ごしたが、この事故で受けた衝撃はずっとひきずったままだった。

くしくもこの1985年にはつくばで科学万博が行われ、「科学万能」さえ言われかけた年であるが、この事故は科学を持っても防げない人の命のもろさを知った出来事であった。犠牲者の冥福をお祈りします。
 


2009年08月12日 ギリギリののところで粘れるか粘れないか
思い起こせば私の人生は挫折とピンチの連続である。でもなんとかギリギリのところの踏ん張り切り抜けてきた。
小学校時代に習っていた柔道の試合、中学時代の部活、大学入試、卒業、社会人になってからの諸々の仕事や事件、そして中国渡航まで最後のギリギリのところで踏ん張ってなければ恐らく、人生が変わっていた、いや終わっていたかも知れない出来事ばかりである。
 普段からコンスタントに努力していればギリギリになって慌てずに済んだのになぁといつも振り返って反省するのだが、まあ途中だって手をぬいてさぼって生きてきたわけじゃない。
確かに多少斑があるが、どのステージも結構いろんなことに全力でぶつかっていて、ちょっとほったらかしになっていたことをぎりぎりにまとめて処理するから苦労するのである。
夏休みの自由研究に夢中になって時間を消費し、最後になってドリルの宿題をまとめてやるようなものであろうか。

 まあ、そんなこんなで今があるのだが、こういう生き方は宿命のようなものでいつも同様の状況に追い込まれている。
ピンチを迎えてギリギリののところで粘れるか粘れないか、これはとても重要で、世の中には嵐が過ぎるまでじっと耐えなければならないピンチと、必死にもがかなければ解決しないピンチの2タイプがあるが、前者は何もしなくても乗り越えられる場合があるが、後者の場合は何もしないでいては結局ゲームオーバーになるだけなので粘らざるを得ない。
もちろん状況をだまって指をくわえて見ていても何も解決しないし、解決しないどころか、時間が過ぎるごとに状況が悪化していく。ギリギリまで何とか粘ってもがいてピンチを脱出するしかない。そうやらないと乗り越えられないし、生きていけない。
まあ毎回いつものこと(?)とはいえ、毎度毎度結構大変なのだが、粘りが「信条」の私にとっては、土壇場で何もできないまま負け犬にはなりたくないのである。
粘り続ければ、何らかの活路が見えてくる。
 そう信じている。


2009年08月11日 台風はいつ来ていつ行った?
写真は7月の大雨の時
先週半ばから日本の天気図で台風8号の動向をチェックしていたのだが、どうやら先ほどの天気図によると上海に非常に近いところを通過していって既に黄海に抜けてしまった模様だ。しかし、どうも台風が来たという実感がないまま終わってしまった感じである。
 台湾では死者も出たほど大きな被害があったようだが、上海でそれほどすごい雨も降ってないし、すごい風も体験していない。実際通過したのが夜中のようなので、寝てるうちに大雨が降り、風が吹いたという状況も推測できる。
 しかし、朝市内を歩いてみても、確かに地面は湿っているがどうしようもない大雨だったという様子ではない。
少なくとも先日のスコールのような集中豪雨、あるいは日食の日に振った雨のほうが余程凄い雨で道路が冠水するほどの勢いであったのだが、今回の台風ではそんな騒ぎはどこにも聞かない。
 まあ被害が出なかったことはそれはそれで良いのであるが、きっちり構えていた私にとってはどこかちょっと拍子抜けである。




2009年08月10日 「ほうれんそう」の基本
社会人の新人が会社に入ってまず教え込まれるのが、「ほう」「れん」「そう」の基本である。
「ほうれんそう」とは言うまでもなく「報告」「連絡」「相談」のことで、つまりまめに状況を報告せよとのことである。特に状況が悪いときほどこれを欠かしてはいけない。小さな変化であれ、堤防の一つの穴が堤防全体を壊してしまうこともあり早めに対処しなければ間に合わないかも知れないからである。
 つまり状況が悪いときは、何らかの手を打ってアクションを必要があり、故にその状況報告は早いほどいい。それは社員→会社だけでなく、会社→社員の方向でも同じことであり、必ずしも社員側にだけ要求されるものではない。
 会社側も不利な状況ほど社員に明確に開示しないと、いざというときに社員の協力を得られなくなるし場合によっては不信感を生む。

また客先に対しても同様のことが言え、待ち合わせ時間に遅れたり予定納期に間に合いそうも無いときずるずる報告もなく遅れてしまえば、あっという間に信頼を無くしてしまう。もちろん遅れないことが第一だが、事前に状況さえちゃんと報告できれば、客先にも対処のしようがあり、ドミノ倒し的な遅れの連鎖を防ぐことができるので、こちらの報告が相手の被害を最小限にくいとめることができる。故に自社の仕事の遅れの報告は確かに格好悪いが連絡はするべきなのである。

 こういった日本では当たり前の「ほうれんそう」の基本だが、ここ中国ではまだまだ時間観念がルーズのためあまりきちんと実行されない。
それを強く感じるのは飛行機が遅れたときの空港係員の対応である。
 明らかにチェックイン時には遅れの状況が発生しているであろうにも係わらず、定刻表示され登場口について初めて飛行機の遅れを知り、そこで長時間待たされる。
空港間あるいは航空会社内部の連絡がうまくいっていないのか、或いはその空港の案内がルーズなのか、或いは客が逃がさないための「意図的」なサボタージュなのかわからないが、毎度毎度同様の対応で腹が立つ。搭乗時に遅れの状況がわかれば、別の便に振り替えることができたかもしれないのに、搭乗口まで来てしまっていたのでは基本的にお手上げである。飛行機の遅れは日常茶飯事の出来事とはいえ、状況によっては泣きたくなる場合もあり、そんな時空港係員の対応ぶりには苛立ちを覚える。

全てに通じる「ほうれんそう」、人の振り見てわが振り直せ、自分も初心に立ちかえって忘れないように気をつけたい。


2009年08月10日 一味違う茨城空港の開港に期待!
 来年の3月に開港が予定されている茨城空港だが、その開港後の見通しについて現在いろんな議論が沸騰している。
 今度の茨城県知事選挙の争点の一つになっているほどである。
茨城空港は全国の地方空港建設ラッシュのうち、事実上最後の空港と呼ばれ、日本の99番目の空港として開港する。
 反対される理由は1にも2にもその必要性と事業の採算性の問題である。
開港に異を唱える人の主な理由として、既に首都圏は羽田と成田という二大拠点空港を抱え、第三の空港が必要なのかという意見がある。さらに、昨今の金融危機や原油高騰、あるいは9.11以降の航空需要の冷え込みによって航空需要が低下しているこの時期に、果たして新空港が必要かという疑問があり、新空港の開港に反対の声が上がっている。
 茨城空港より先に開港した空港はその多くが苦戦を強いられている状況を見ると、その心配も無理も無い。
 もちろん茨城空港もこれらの先例に倣って同様の地方空港として開港するつもりだったので、そのまま開港すれば同様の状況に陥る可能性があったのである。
 しかし、昨年の新聞報道で、国内2社の国内線の就航予定の目処がまだ白紙であることが報道された時期を境に、県が空港としての存在意義について思い切って方針転換したことから状況は変化を見せてきている。


 どういうことかというと、茨城空港は国内の一地方空港ではなく、世界の中の東京のセンカンダリー空港としての開港を目指すことにしたのである。センカンダリー空港とはローコスト航空会社(LCC)が利用するのに適した空港で、サービスを極力排除して運賃を下げているような格安航空会社が利用しやすいように、航空会社が空港に払っている空港使用料などを節約できる構造を持った空港のことである。
 実は航空会社が空港に支払っている費用は想像以上に多岐に及ぶ。滑走路使用料、タラップやボーディングブリッジ使用料、中継バスや機体誘導車、管制の利用料、はたまた荷物をピックアップするターンテーブルの使用料など、我々搭乗客が当たり前に利用している空港のサービス設備の利用料は、実はこれら航空会社から払われ、元を正せば我々が払うチケットの値段にそのまま跳ね返っているわけである。
 つまり、もしこれらの空港使用料を節約できることができたなら、航空運賃を
下げることが可能になり、コストパフォーマンスが命のLCCにとって非常に助かるわけである。

 そして実際、茨城空港はそういったタイプの空港としての設計変更を行ない建設が始まっている。機体が誘導車なしでも駐機・出発できるような自走式の駐機場構造とし、滞在時間を短くできるようにした。またボーディングブリッジを無くし航空会社の負担を無くした。さらに出発到着のフロアを1階に統一し、お客の導線をシンプルにした。これらによってLCCに対応できる空港になることになったのである。
 そしてこの目論見が功を奏し、なんと国内キャリアより先に韓国のアシアナ航空がソウル線と釜山線の就航を表明したのである。ローコスト構造の空港を高く評価されたようで、そのほかにも彼らは空港のコンパクトさを評価している。
 空港がコンパクトであることのどこが評価対象なのかというと、空港に入ってから飛行機に乗り込むまでの時間が非常に短縮できるということである。
 実は羽田や成田の場合、空港自体が広すぎて空港に到着してから航空機に乗り込むまで非常に長い時間を要する。さらにターミナルの端まで行かされて疲れた経験のある方は大勢いるであろう。
 成田の場合、出発時刻の2時間前に空港に着くことが必須といわれる。それが茨城空港の場合は、コンパクトであることにより1時間を切る設定が可能だというのだ。空港までのアクセス時間に差があったとしてもここで完全にその差は打ち消されることになり、不利といわれる東京都心から距離はあまりマイナスにならず、その分、空港周辺でならばぎりぎりまで時間が使えることになる。
 

 こうやって考えると、たとえばLCC利用の場合、「サービス」という要素さえ我慢すれば、かなり格安の運賃で海外と東京が行き来できる可能性が出てくる。
 実際、私のように海外在住の働く人間にとって、もし格安で日本と行き来することができれば、もっと気軽に往来したいと考えている。
 今のところ上海線の就航話が出ているわけではないが、実際にアシアナ航空の就航が決まったことにより、上海からソウル経由で茨城空港への帰国ということも可能になったわけである。もちろん料金格次第であるが、直行便より価格が安ければ迷わず利用したいし、さらに価格次第では現在年2回程度の帰国を3回、4回と増やすことが可能になる。そういった意味で、従来の地方空港とは一味違った価値・魅力を見せる茨城空港の開港には私は非常に期待を寄せている。




プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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