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2012年03月29日 日中の一人前感覚の差
一人前と言ってももちろん食事の差ではない
(もちろんこれも大きな差があるが、、、)
職業や仕事の成長レベルや到達度における「一人前」のことである。

どの時点で一人前になったかというのは、つまり人が生きるための自信を得るかの分岐点であるように思うが、日本人と中国人ではこのポイントに非常に大きな差があるような気がする。

 このポイントが違うからこそ、中国人は日本人から見て非常に自信家であるように見えると同時に、何にも分かってないのに自信たっぷりで愚かだなぁという印象を持つケースが多い気がする。

 具体的には、中国人の場合は仕事の手順を教わって一通り作業をするようになった時点で、本人は一人前の仕事が出来るようになったと思っているフシがある。

 「もう俺はこの仕事ができるんだ」と。

 故に就職1年にも満たない奴がいっちょ前の口をきき、さらに数年すると学ぶことが無くなったとさっさと転職する。

 しかし、日本人の尺度から言えば、それは単なる仕事を始めるスタート地点に立っただけで、仕事が出来るようになったとは言えないという判断になる。

 教師や医師を例にとればわかりやすいかもしれないが、教員試験や医師の国家試験に合格して、晴れて教員免許や医師免許を取ったとしても、それは教育する資格や医療を行なう資格を得ただけで、その職業としてまともな仕事が出来る状態になったとは決して言えないのが日本人の尺度である。

 ところがこの免許をとった時点でもう一人前になったと思ってしまうのが中国人たちの尺度のような気がする。

 しかし日本人から見ればそこからがスタートであり、教師であれば幾つか担当クラスを数年持ち何百人もの生徒と向き合う経験を経てようやく一人前の教師になったのかなという判断になる。

 医師で言えば、医師試験合格後、何年にもわたって日々多くの患者と症例を診てそれらと向き合う経験を経てこそ、ようやく一人前の医師と評価される。

 逆にそういった経験を経ないうちは、その職業においてまだ半人前としか評価されないのが普通で、故にそこに気が付かず例えば自分を一人前になったと思い込んで「教育とは」とか「医学とは」とかなど一人前ぶってその道に関する本を書いたり講演を行なったとしても、見向きもされず馬鹿にされるのが通常の評価である。

 むしろ、そんな経験の浅い人間が一人前ぶったことをすれば、己の身の程知らずを晒す結果となり、プラスの評価を得るどころか、ああこいつは免許を持っているが実際その道の奥深さを何も分かってない世間知らずなんだなとマイナスを評価を受けることになる。

 それだけ社会は経験を重んじ、経験を経て本人なりの道の歩き方を会得した人間にだけ一人前の評価を与えるである。

 故に経験が浅い時期に書いて評価される本は、せいぜい試験合格までの奮闘記レベルのものであって、そのステップの経験に興味をひかれることはあっても、普通はその人間のその職業への見識や研究成果が評価されるわけではない。

 本当にその人がその職業の道にいる人間として評価されるのは、やはりそれなりの経験を積んでからであり、自分なりの職業手法を確立してこそ初めてそこからが一人前と言える状況になる。

 しかし、少なくとも現在の中国においては経済発展の歴史が浅いという事情もあって、どの分野においてあまり先駆者がおらず、それゆえ日本人からみてロクに物事を理解していないように見える人間でも、その分野の数少ない経験者として一人前の顔をして仕事が出来る状態にある。

 まあその人間が慎み深ければその後の成長にも期待はできるが、誰とてその分野の数少ない経験者として持ち上げられればやはり人の子であり天狗になりそれが成長を妨げる。

 これは経済発展の過渡期として致しかない中国の現状における事情なのかもしれないが、このことは実は個人にとっては本当の一人前の状態に向かう向上心を失わせる不幸な環境でもある。

 しかも中国はなまじっか日本という“真似できる”見本がすぐそばにあったが故に、中国や中国人たちは自ら苦労して開拓しながら成長するという経験を得る機会を失っており、他国の文化技術を輸入し表面上を真似しただけで自分自身や自国が一人前になったと思い込むしかなかった状況は、実はこの国家にとっても本当の意味での力強い成長を妨げる不幸な要因になっているような気がする。

 ここ10年、日本が青色吐息ながらでもいまだ踏ん張っていられるのは、戦後に経験を積み重ねて本当の一人前になった人間がまだ数多く残っているからに他ならないのである。



2012年03月27日 医療は30年前から進歩していない?
 先日入院していたときに、お笑いの爆笑問題の2人が天才心臓外科医の南淵明宏氏を尋ねるというテレビ番組の企画を偶然見た。

 ちょうど自分が入院していたということもあり、興味を持ってじっくり番組を見たのだが、その時その医師が話していたことの中で興味深かったのは、医療の最前線は実はあまり進歩していないということだった。

 進歩していないと言えば語弊があるかもしれないが、「最新の医療」と言われて久しい今日でも、医療の最前線では非常に昔ながらのアナログな医療が行われ使われる器具もあまり変わっていない状態だというのだ。

 その一例が人工心臓弁で、実は30年前からデザインが変わっていないという。
 もちろん色んなメーカーが新しい心臓弁の開発を試みてはいるものの、その30年前の製品を上回るものは生まれてこないのだという。

 このことは実は患者にとっても安心材料で、この心臓弁を使うのはあなたが初めてですというより、30年前からみんなが使っていると言う方が患者が安心するとのこと。

 また心臓手術の際に使用される縫合用の糸も昔から同じものを使っており、その後接着剤など色んな方法が試みられたが、糸による縫合を上回る技術は生まれていないのだという。

 もちろんこの30年の間に検査機器などは発達し、非常に精度の高い検査は可能になってきたが、医療行為という人間に接する最前線では昔ながらの非常にアナログなことが行われているのが実態だということ。

 そういった意味で巷で言われる「最先端医療」という言葉の意味するものは何なんなのかを考えてしまうとしたこの医師の言葉が印象的だった。

 そういえば私の手術の時も、鼻茸の切除部からの止血をするのに止血剤は点滴に入っていたが、あとはガーゼを当てて圧迫して止血するという方法で、よく考えてみれば非常に原始的な方法であったという気がする。

 ともすれば我々患者側の人間は医療の最先端信仰に陥いりやすいが、実はそれは幻のようで、医療そのものは何十年も本質的なところでは変わっておらず、医療の良し悪しを左右するのは実は技術ではなく医師らの人間の資質なのかもしれないと感じたのがこの番組だった。

 まあそういう意味で、毎日のように休まず患者に接しながらも、命への畏怖を忘れないこの医師はやはり現代の名医の名にふさわしいのだろう。


2012年03月26日 虹橋ターミナルのBGMに「北の国から」のテーマ曲が流れていた
 今日、というかもう昨日になってしまったが、ちょいとした野暮用で上海の虹橋空港に接続する地下鉄2号線の第2ターミナル駅に行く用があった。

 そして地下鉄を降りてエスカレータを上がってコンコースに出たところ耳慣れたメロディのBGMがかかっていることに気が付いた。

 「あれここにBGMなんて流れていたっけ?」

 この場所に何度も来ているが、今まで音楽流れていたという記憶が無く、恐らく最近流れ始めたものだという気がする。

 シンセサイザーかエレクトーンのような高い音で優しく響いている音楽だった。

 それにしても非常に耳慣れたようなメロディだ。

「この曲なんだっけ?」

 うーん、クラッシックだっけ?民謡だっけ?映画音楽かなぁ?頭の中で一生懸命に曲名を探す。
 まあ比較的静かな空間ではあっても公共の空間であり、それなりの人の雑踏の音もあり、音楽の聞こえ方も途切れ途切れだったため、なかなかメロディラインが綺麗に聞き取れず、メロディと曲名を結びつけるに至らなかった。

 そして結局メロディを捉えきれず、曲名探しを諦めようと思った瞬間に、

「あ、これ『北の国から』だ、、、」と、思い出した。

 なんと、この中国・上海の地の空港と地下鉄駅を結ぶコンコースでかかっていた曲は日本のあの名作ドラマ『北の国から』のテーマ曲であった。
 そう、“さだまさし”さん作曲の「あーあー・・・」というハミングで有名なあの曲である。

 この取り合わせには流石の私もびっくりした。

 確かに『北の国から』は北海道の地を舞台にしたドラマであるだけに、旅情を掻き立てるという意味で空港に繋がるターミナルコンコースのBGMとしては“ハマリ”なのかも知れないが、それにしても中国の空港でこの曲がかかるとは思わなかったというのが正直な感想である。

 うーん、それにしても虹橋空港で『北の国から』なのだろう?

 もしや、BGM用CDの一部でたまたまかかったのかなと思い、しばらく留まって聞いていたが、結局は『北の国から』の繰り返しであった。

 今回この場所にそんなに長い時間居たわけではなかったが、少なくともここにいた30分程度の時間はずっと『北の国から』のメロディが流れていたのである。

 果たしてこれはいつも毎日の事なのか、たまたまこの日とかこの時間のことだけだったのかわからないが、少なくとも私がいたしばらくの間BGMはずっと『北の国から』だったのである。

 うーん、何故にここで『北の国から』か?どう考えても謎である。

 はてさて、この件についてまずは、いつも恒常的に流れているのかどうかを確かめるべく、近いうちにもう一度確かめに行こうと考えている。

 それにしてもこのBGM利用は、許可とか著作権使用料とかは大丈夫なのだろうか?
ここは中国だけにそこがちょっと気になるところではある。
 
 




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2012年03月22日 組織に恋々としない姿勢
 件の清武の乱と呼ばれる巨人球団を巡る報道で、昨日清武さん側からのコメントの記事が出ていたが、議論の中身はともかく組織に恋々としない姿勢は素晴らしいなという気がした。

 彼は元いた組織へリスペクトも残しつつ、きちんと過去は過去と割り切った立場で言葉を発している。

 まあ解任された時点の経緯を考えれば当然の姿勢ではあるが、そうはいっても世の中には、組織を離れると言ったはずなのに完全に袂を分かつことが出来ず、組織を離れた後もその組織のネームヴァリューによりかかったり、組織に恋々とした態度を見せる人も少なくないのは事実である。

 かと思えば、組織を離れた後に、都合の悪い時は「私は辞めたからもう関係ない」といいながら、別の場所では「元○○です」と過去の肩書をちらつかせ二枚舌を都合良く使い分ける不届きモノも時々見かける。

 まあ組織を離れた経緯がどうであろうと、離れたなら恋々とせず潔く距離を置いて進むのが袂を分けた相手への最低限の礼儀であるはずなのにそれが出来ないというかわからないのである。

 こういう組織を離れたはず人間の「俺は外から貢献している」という勝手な思い込みに基づく恋々とした中途半端な態度・行動は、実は残った人間にとっては迷惑な場合が多い。

 その意味で読売新聞に一貫して身を置いてきた清武さんが、解任後恋々としない態度で巨人球団と相対せるのは凄いことだなと思ってしまう。



2012年03月21日 日本人のストレス原因は日本人
 先日、医療に関連するセミナーに参加したところストレスというテーマについて取り上げられていた。

 よく外国生活は生活文化の違いからストレスが溜まると一般的に語られ、今回のセミナーでもその前提で話が進められていた内容であった。

 しかしこのセミナーを受けて、現地にいる私や私の周囲の人間で語られた話題は、最近のストレス原因は中国そのものというより日本の本社など日本人に対してのものが多いのではないかという話だった。

 確かに外国での生活には、文化や生活の違いから違和感を感じそこがストレスになることも少なくないのだが、実は最近の上海生活に限って言えばこの点は当てはまらず慣れてしまうとそれほど苦にならない。

 特に上海は生活水準が上がり便利になったので海外生活というほどの違和感をそれほど感じずとも生活が可能である。

 しかし上海においてビジネスを進める上で、上海の都市のスピード感や現地の事情が分かってくると、逆に日本サイドの無理解やスピード感の無さに対してイライラが募りそこがストレスの原因になる面がある。

 また上海に来ている日本人の中にも、日本人なのにまともな日本語が書けなかったり、社会人としてまともな報連相ができないといった常識に欠けた人ような人も少なくなく、そういった日本人に対するイライラもあるようだ。

 更に、中国在住が長すぎて現地化した思考パターンを持つ日本人も時々いて、そういう人に接した場合に日本人と信じていたのに騙されたり裏切られたような感覚に陥いるケースも少なくなく、実際中国人には騙されなかったのに日本人に騙されてストレスを感じているパターンも少なくない。

 また中国人に対してならフラットに付き合える人間関係も日本人同士ではストレスの一因で、上下関係や会社の資本関係を気にして言葉を使い分けなければならないという日本人特有の堅苦しさも中国においては際立ってストレスとなるともいえる。

 こうやって考えていくと、少なくとも上海における日本人生活のストレスの原因の多くは日本人にあるような気がしてならないのだが果たしてどうであろうか?



2012年03月21日 危うい?中国の医療器具
 今回手術で入院した時、待遇や設備という面で言えば中国で入院していてもそれほど不安は感じなかったが、では「中国医療」全体について全く不安を感じなかったかというと、実はそうではない面がやはりあった。

 一番不安を感じたのは医療器具の点である。

 それは、点滴を受けていた時の事だったが、点滴チューブについている調節弁で点滴速度を調整しようとしてもうまく調節できなかった時があった。

 かつて20年ほど前に日本で入院した時や中国で下痢で点滴を受けた時はこの調節弁で点滴速度を調節できたはずなのだが、どうも今回の調節弁はうまく機能しない。

 たまたまこのチューブの調節弁だけ出来が悪いのか、中国では総じてこうなのか分からないが、とにかくこの時の調節弁は微妙な調節が出来るものではなかった。

 まあこれにより気分が悪くなるなど不便はなかったので特に気にすることもなかったが、本来医療に「たまたま」は許されず、これで気分が悪くなったら怖いものがある。

 何となくこういった医療器具にも日中の文房具の差ような精度の差を感じずにはいられなかったのである。

 さらに今回私につかわれていた点滴針には逆流防止弁がついていなかったようだった。

 まあこのこと自体は調べてみると、イコール欠陥医療器具ということには全くならず、特別な条件の点滴ではない限り逆流防止弁の採用は必須ではなく、例え点滴が終わって逆流しても何時間も放置しない限り心配するようなことはでもないようである。

 しかしそうはいっても、少なくとも過去に点滴を受けた病院では全て逆流防止弁が採用されていた気がするので、今回点滴中にトイレに動いた時に、チューブに血が逆流しているのを見てちょっと焦ったのを覚えている。

 物の考え方の基本として常に万が一の事を考える日本人としては、この逆流防止弁はあるととても安心なのだが、医療的に必須でない部分にはコストがかかってないという面が何となく中国的医療器具事情の象徴に見えてしまうのである。

 もちろん日本だって100%逆流防止弁が使われているわけじゃないようだが、今回VIP病室なのに?てことを考えると、病院全体で採用していないということが容易に推測できて、やはり中国的判断なのかなと感じずにはいられないのである。

 まあ今回の件は、エアバッグをつけた安全装備の車に慣れてしまうとエアバッグなしの車が危険に見えてしまうという程度の事で、イタズラに中国医療に不安を感じてもいけないのかもしれない。

 しかし今回入院中に見たニュースで「注射針の使い回しで肝炎の集団感染」などという見出しを目にしてしまうと、この国の医療の水準の常識はいったいどこにあるのか不安にならざるを得ない面は確かにあり、今回の医療器具がその安全意識の象徴であるような気がしてしまったのである。
 



2012年03月20日 清武パラドックス・マジック?
 今回の日本のプロ野球巨人球団を巡る騒動で、情報発信源と疑われる清武さんがその関与を否定したと報道された。

 そしてその直後に今度は巨人球団の桃井オーナーが、清武さんが「資料は回ってこない」という発言していることについて、「真っ赤なウソである」と批判しているという。

 私はこの報道を見て、あ、桃井さん側が見事引っかかってしまったなという印象を受けた。

 片や巨人球団と清武さんは、去年の記者会見に端を発した清武さんのGM権限を巡って係争中であり、その意味で発言は慎重にならなければならないはずなのに、今回桃井オーナーは勢い余って「清武さんは権限者」であったかの如く言葉を吐いてしまったことになる。
 これはどう考えても勇み足である。

 これに対して清武さん側は今後も引き続きある程度は否定の発言を貫くであろうと思われる。

 すると球団側はその否定をさらに躍起になって否定し、清武さんの当時の権限の強さを叫ぶことになるに違いない。

 しかしこれは巧妙に仕掛けられたパラドックス的罠のような気がするのである。

 球団側が清武さん側の関与を立証しようとすればするほど、実は現在係争中の裁判において巨人球団側は不利になっていく面があるからである。

 つまり球団側そのものがもともと矛盾を大いに含んだ状態であるため、叫べば叫ぶほどボロを出していくことになるのだが、さりとてこのまま否定せず放置するわけにもいかない状態が球団にあり、これらの矛盾が今後球団をどんどん追い詰めていくことになろう。

 もし、これらが清武さん側の意図で計算づくで動いているとするならば、物凄い清武マジックというほかあるまいが、さてさて果たしてどうか?


2012年03月19日 効き過ぎる抗アレルギー剤
 先日の手術以後、病院に抗アレルギー剤をもらったので飲んでいるが、どうもこの抗アレルギー剤というのは苦手である。

 クシャミや蕁麻疹抑制には効果を発揮してくれるのだが、何しろこの薬を飲むとダルイし眠くなる。

 うつ病にかかったの如く気力まで奪われてしまうので実はあまり飲みたくないのだ。

 しかし、これを飲んでいないと体がアレルギー反応を起し、くしゃみを多発したり気管支が苦しいことがあるので、全く飲まないというわけにもいかない。

 故に、通常医師に指示された間隔(1日1回就寝前)よりも少し間隔を長めにとって飲んでいる。

 医師から見たらとんでもないことかもしれず、ひょっとしたら改善速度を落としているかもしれないという気がするが、そうはいってもあの気だるさと眠さの中では仕事がまともにできないので、このような折衷的対応を取るしかない状況になっている。

 いつになったらすっきり脱出できるのだろうか?

今はそれを願うばかりである。


2012年03月18日 ルールとモラルはまた別物
 日本の野球の巨人の契約金問題が騒ぎになっている。
個人の契約が公表されて、本来各球団の申し合わせで決めていた1億5000万円を大幅に超えた金額で契約がされており、モラルが問われている。

 「開幕を控えたこの時期に何故?」という声もあるが、ほんの2か月ばかりのシーズンオフしかなく、一年中動いているプロ野球にとっては「大事じゃない」時などあるはずもなく、物事の本質ではない。

 むしろシーズン中に明らかになるよりよほどマシである。

 今回の報道に対して、巨人球団は最高標準額は目安であって、規則ではないので問題はないとしているが、では何故契約金の分割払いなど姑息な手段で隠蔽し発覚を恐れたのであろうと素朴な疑問が湧く。

 私は個人的にはいい選手であるなら、素直に評価してあげればいいしそれ故に巨額な年俸をもらっていたとしても何らおかしな話ではないと思うが、今回明らかになった契約金の支払い手法には明らかに隠ぺいの意図が見え、疑問符が残る。

 そして巨人以外の球団は、今回の件について巨人軍を非難すると思いきや懸命に擁護する姿ばかりが目立つ。

 果てこれはどういうことだろうかと少し考えた。

 どこの球団もやっていることだからと言うだけなら簡単だが、では何故そんな「最高標準額」などというよく分からない数字が生まれてきたのかという疑問が残る。

 これは私の推論だが、恐らくこの「最高標準額」という金額は、各球団がそれぞれの選手に幾ら払っているかを分からなくするためのブラインドの役割を果たしていたのではないかと思う。

 つまり巨人軍が資金力にモノ言わせて沢山の契約金を支払っているというのは誰でも知っている話であるが、他の球団はその資金力の差がどのくらいあるのかを入団交渉する新人選手達にあまり知られたくないわけで、そういった意味でどこの球団も上限1億5000万円を目安に払っていると言っておけば不要な札束攻勢をかけずに済むことになり、年棒高騰に歯止めがかかるということになる。

 また、実力がそれほど認められない新人に無意味な年棒交渉をされずに済むという利点もある。

 今回は少なくとも巨人軍ではその最高標準額という言葉が有名無実であったということが判明したわけであるが、その情報が一気に広まってしまったことによって困っているのは実は巨人軍ではなく、他の11球団ではないかという気がする。

 つまり10億も払われていた選手の同期に対して各球団は、「巨人軍は金持ちだから当球団より少し多いかもしれないが、標準額があるのでそれほど大きな差はない」と説明できていたわけで、実際その選手に対しても標準額より少し多い金額で契約をすればその選手の自尊心は満たされ、選手にとっても差をつけられたというプライドも傷つけられずに済むわけであったが、実際実態が明らかになってしまえば実はその差が大きかったことに気づかされる。

 つまり選手としてはあの時のあの話はなんだという球団不信になるが故に、巨人以外の各球団は困るのである。

 結局あの1億5000万円という数字はNPBの12球団が共存共栄を図るために作ったカルテル的協定に他ならなかったような気がする。

 今回巨人ばかりが槍玉に上がっているが、問題視すべき巨人だけではなく新人に金をはらって異様な囲い込みを行なうプロ野球全体の体質のような気がする。

 できれば選手の青田買いのための無用な札束攻勢はやめて、活躍した選手に素直に高額年棒を払って評価すればいいのではないかと思うが果たしてどうであろうか?
 もし選手の育成が必要ならば、育英資金制度のようなものを堂々と設ければいいのいではないだろうか。

 プロとはいえ、スポーツなのだからルール違反はないと見苦しい言い訳でコソコソとせず堂々とやってほいものである。

 ルールとモラルは別物であるから。



2012年03月12日 「絆」なんて安っぽい言葉いらない
<「絆」なんて安っぽい言葉いらない>

 これば昨日の昼食時に見たテレビで、日本の被災者がテレビカメラに向かって発していた言葉である。

 地震以降、募金以外の満足な協力を出来ていない自分にはこれは耳の痛い言葉であると同時に、彼ら同様に無責任に言葉を乱用する人たち、行動が全く伴わない人たちに対して怒りも感じる。

 地震の困難を乗り越えて皆で協力し合おうと、昨年の漢字にも選ばれたこの「絆」だが、現実には掛け声ばかりで瓦礫さえ満足に受け入れてもらえない日本社会に、何ぞ「絆」だと被災者たちに怒りがここに表されてる。

 福島からの移転家族の子供が幼稚園で入園拒否されたという話も耳にした。

 私自身は昨年の4月には一度帰国したが、その後ずっと上海にいたということもあり、協力できることはもっとあるのではないかと思っていたものの結局は大したことは出来ていないのでやはり絆を口にする資格はないかもしれないが、それなりの協力はしてきた。

 でも「絆」というのは苦労を分かち合ってこそ生まれる「絆」であり、何の自己犠牲も払わず生まれるものではない。

 結局、絆というのは困難の時だけ「絆」が有るフリをするようなそんないいとこ取りはできないような気がする。

 普段から周囲をないがしろにしている人間が、こんな時だけ震災をネタにして「再び3月11日を迎えて」などという分かったようなブログを書いているが、表面上わかったような文章を書かれても、あまりにも安っぽい言葉にしか聞こえず、震災を単なるブログのネタとして使っているようにしか思えず被災者に対して申し訳ないという気がする。
 
 言葉だけならいくらでも言える「絆」という言葉だが、日常から何の犠牲も払わず努力もせず、現実を伴わない口だけの人間が口にしないで欲しい言葉だと私は思う。 





プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

音響さんのこだわり復刻版
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