TOP > BLOG > 上海ワルツNEW

上海ワルツNEW


2012年03月11日 遺書を書いた
 そういえば今回手術を受ける直前に遺書めいたものを書いたのを思い出した。

 当日の朝の手術室に運ばれる一時間前くらいの事である。

 遺書というほど大げさなものではないが、手術で万が一死んでしまった時のことを考えて、自分のまわりの人への挨拶のような意味を込めてノートに走り書きをした。

 まあ今回小さな手術であったものの、例え0.1%にも満たない失敗確率だったとしても、人生予期せぬ出来事が発生することは絶対に無いとは言えず、万が一そのまま死んじゃったりしたら、私の周囲の人に申し訳ないなと思ったのである。

 つまり、絶対大丈夫だと思いながらも想像以上に手術の緊張感に追い詰められていたわけで、一応はそのくらいの覚悟を決める必要があるなとこの瞬間は思ったのである。

 もちろん、自分自身だってあの程度のことで死んでしまったら人生全く本意ではなく、ここで死を覚悟したような文章を書きたいわけじゃなかったが、生きていれば何でもなく解決できそうな人間関係について、もし死んでしまっては言葉が伝えられず、本意を伝えきれないと思いその想いを書き記したのである。

 故に、自殺を意識した遺書ではないことを冒頭に書き、あくまで死んでしまった時の念のためという断りをした文章で書いた。

 まあ今となっては無事元気になって復帰できたので、その時書いた内容は無用となったが、いま読み返してみると何となく追い詰められた中での自分の本音が出ていたような気がする。
 
 本来、人生の万が一の予期せぬ出来事というのはどこでどう生きていても起きうるため、その意味では遺書というのはある意味いつでも用意すべきものかもしれないが、流石に普段からそういう覚悟をするのはなかなか難しい。

 今回、一応本気で死を覚悟したから書けたのだと思う。

 それにしてもこの遺書というもは意外に仕舞い方・見つけられ方が難しいものだとこの時初めて知った。

 遺書は出来れば“万が一”になった時以外は人目に触れて欲しくないものなのである。

 故に今回の私の遺書はそのノートを鞄の中にしまい、万が一となった時にだけ見つかるように気を使って仕舞った。

 そして手術から無事帰還した今、今回書いた遺書はとりあえず自分が生きている時分に誰かの目に触れるとまずいので、人目につかぬよう捨てることにした。

 死ぬと思えば言える言葉も、生きているうちは言い難くなるから人生不思議である。



2012年03月07日 中国の看護婦さん
 今回の入院中、当然のことながら看護婦さんたちには大変お世話になった。

 まあこの看護婦という言い方も今となっては男女平等の意味もあって、看護士という言い方が定着しつつあるが、中国の現場では今のところほとんどが女性のようで、敢えて「看護婦さん」と呼ばせてもらいたい。

 病院というのは、医師が病院の顔として君臨しているように見えるが、実際に病院が病院として成り立っているのは看護婦たちが支えているおかげの部分が非常に大きく、彼女たち無しには一般的な病院は病院として成り立たないものである。
 それは日本も中国も同じようである。

 特に入院ともなると、医師の出番は診療や手術のみで、それ以外のケアはほぼすべてが看護婦の仕事であり医師の指示に従い24時間交代で面倒を見てくれる。
 医師だって当直での待機はしてくれているが、患者の細かい面倒まで見てくれるわけではなく、結局現場の末端には看護婦さんたちが必要なのだ。
 
 今回、入院したおかげで、初めて中国人看護婦たちの動きっぷりを目の当りにすることができた。

 今まで、通院では何度か中国の看護婦さんたちの姿を見てきたが、ほんの数十分の動きを見るだけでは、日本の看護婦さんたちとどう違うかなどはわかるはずもなく今回はフルタイムで仕事を見れたわけで貴重な機会だった。

 さて、実際目の当りにした中国人看護婦さんたちの率直な感想は、看護婦さんといえども中身は中国人の女の子なんだなぁということ。

 あまり悪いように捉えて欲しくはないが、日本の看護婦さんたちに比べれば人への接し方がぶっきらぼうで、丁寧に患者に声をかけて励ますような面は少なく、仕事を黙々と真面目にこなしている印象だった。

 多くの中国人女性がそうであるように、接客時なども仕事としては丁寧だが表情に乏しく、営業スマイルのようなものはあまり出てこない。気配りも比較的苦手だ。
 ただその仕事っぷりは日本人に負けず劣らず非常に真面目である。

 日本人女性のように、笑顔や情で接することはなく目の前の仕事だけが丁寧だと言えばいいだろうか?

 まあこちらとしても5日足らずの短期入院であったし、その間の半分は手術関連で朦朧としていた時間だから、看護婦さんたちと親しくなる期間にはとても足りなかったとも言えるのだが、それにしても日本人看護婦などと比べるとその点では差がある。

 この点はいかにも中国的であると言えるし、日本の看護婦が日本的でもあると言えるのだが、その差はあまりにもわかりやすい。

 今回入院した場所は外国人専用の病棟ということで、恐らくこの病院の中でも比較的優秀な人材を選抜しているはずだから、今回接した看護婦さんたちが中国の中でも比較的レベルが上位のケアをやってくれているはずと考えると、中国人の看護婦さんたちの仕事はほぼこの状況なのだと推測することができる。

 まあつまり中国の看護婦さんたちは仕事としては信頼は出来そうだが、入院患者として彼女たちに和みの要素を求めるの難しいような気がするということである。


 と書いてしまったが、実はこの入院中に一回だけ看護婦さんの可愛い面を見たことを思い出した。

 それはアイもいなくなった入院4日目の晩であったが、私がテレビもつけずにベッドの上で静かに携帯電話でメールなどをやっていたら、病室があまりに静かすぎることに心配になったのか、一人の看護婦がノックもせずゆっくり扉をあけ病室の中を覗き込んで来たシーンがあった。
 私はドアの開く音がギーッとしたのでその方向を見たら、思わずその瞬間にその看護婦さんと目があってしまったのである。

 結局、看護婦さんは何でもないのだとわかり、バツが悪そうに苦笑いをして手を振って退却したのだが、その姿がとても可愛らしかったのを覚えている。

 そんな看護婦さんの素直な表情を見てこちらも初めてほっとした。

 やっぱり今回時間がちょっと足りなかっただけのようである。

 いろんな意味で思い出がそれなりにできた今回の入院時間であった。






2012年03月06日 医師はあんまり休んでない
 今回の入院のとき、私の担当医は入院中の水曜から日曜までの5日間毎日顔を出してくれた。

 手術の日は無論のこと、ほとんど診察らしき診察がなかった入院初日もほんのちょっとだけ顔を出してくれた。

 入院している患者の立場でみると何となく当たり前のように感じてしまうが、彼らを労働者として考えれば、結構大変なことである。

 実はこの医師は古北の医院では平日は1日おきに午前診療と午後診療を繰り返しており、土曜こそ終日勤務を行なっていたが、この斑な勤務状況に随分のんびりした勤務体制だなぁと思っていた。

 しかし今回手術を受けてみて初めて分かったが、彼はこの勤務していない合間に私のような手術患者などの診療や入院患者を受け持っており、そう考えると彼の仕事はそうのんびりした勤務体制ではないことになる。

 それでなくても元の病院の出勤日だけ見ても、平日は半日ずつとはいえ結局は週の休みは1日だけの状態となっている。

 そして今回の私の入院の際には日曜日にも顔を出してくれ診察をしてくれたわけだから、少なくとも私の入院したこの週はフルで1日休んだ休日はないことになる。

 まあ、一週間毎日朝から晩までフル労働ということは無いと思うが、それにしても彼の休日は少ない。

 患者の病気に休日も夜もないとはいえ、この状況は大変だ。


 気になってネットでデータをググってみたら、日本の勤務医の46%は月の休日が4日以下などとというデータが出ていた。日本と中国の違いがあるとはいえ、今回の医師の勤務状況をみればこの記事の状況も納得ができる。

 そういえば医師になった高校の後輩から大学病院の医師の勤務体制の話をかつて聞いたことがある。

 一応医師も労働者なので休日や労働時間などの設定については一般の労働者と同様の制限があり、その基本に従って仕事をしているはずだが、患者を抱えてしまうと病気には日曜も正月もないことから、放っておけずにずるずると超過勤務に陥ってしまうらしい。

 例え休日としてきっかり1日休みを取ったとしても、結局は体を休めるという意味での休日でしかなく、もし担当患者の容体に急変があれば駆けつけなければならないため、一般のサラリーマンで言う休日にレジャーでドライブに出かけたり旅行に出かけるなど「遊び」的な気分転換の行動は難しいと言っていた。

 ましてや現場を一週間も空けて外出したりするなどということは患者の事を考えれば非常に難しく、よほど医師を労働者として割り切った感覚で捉えていなければ、難しいということだった。

 ただ、このような傍から見れば気の毒に思えるような労働環境も、彼ら自身が嫌々取り組んでいるかというと、どうやらそうとも限らないようで、医師という職業を選んだ故の宿命の生き方として覚悟して働いているとのこと。
 もちろん遊びに出かけたい気持ちが無いわけじゃないが、目の前の患者を放っては出かけられないというのだ。


 うーん、世の中には患者より自分優先で平気で現場を長期間空ける医師だって少なくないと思うが、実はこういう目立たないところで毎日患者のために頑張っている医師が少なくとも半分くらいはいると思うと世の中ちょっと安心できるという気がする。



2012年03月05日 鼻茸手術のその後の経過
手術を行なったのが先々週の木曜日の午前であった。

まあ、自分の備忘録として一応その後の経過も書き記しておこうかと思う。
 手術直後の午前11時半頃に目が覚めたが、鼻からの血が止まらずティッシュで滴る血をどんどん拭いていた。

 その直後お昼ご飯は出なかったような気がする。

 その後翌朝まで、出血による炎症か、微熱の状態が続き大量の汗をかく。
夕方、夕飯は出たが自分ではほとんど食べられず、オカズとご飯をほんの数口食べただけで、あとは食欲がついて行かず諦める。

 血がなかなか止まらないので夕方以降、上半身を持ち上げた状態で寝るよう安静令が下り、以後退院まで頭を低くしてはならないことになった。

 出血を吸収する手段も、ティッシュから顔にガーゼを固定する方式に変わり、以後1~2時間おきに看護婦さんがガーゼを換えに来てくれた。
 準備していたティッシュが底をついたのでちょうど良いタイミングでもあった。

 そしてこの手術の晩は、そんな状態と鼻の出血で体調が安定しない状態が続き、発汗と発熱を繰り返し、次の日の朝まで深く眠れない状態が続いた。

 ところで、この部屋はNHKテレビが見られることが途中で分かったのだが、こちらは手術後ずっとボーっとしており、あまり集中してテレビを見る余裕はなかった。
 そして消灯時間頃、未だ汗をかいており、暖房は暑すぎるので切ってもらったが、一緒にいたアイさんは実は寒そうで、夜中に咳き込んでいたことを覚えている。
 思えば気の毒であったが、こちらが気を使えるほどの状況になかったので仕方なかった。
 


 手術翌日の金曜の朝は寝不足でちょっと体が重く眠かったが、NHKの朝のニュースからずっと見る余裕が出来てきて、この段階からかなり正常な思考が出来るようになった気がする。

 この日の朝食は肉まんと茹で卵と御粥の朝食が出て、この頃からなんとか自分で一通り食べられるようになった。

 その後シーツ担当がシーツを交換しに来たので、手術後に初めてほんのちょっとだけベッドから下り立った、が、まだまだ頭が重くふらつく状態であった。
 しかも相変わらずまだ出血は続いているのでシーツ交換後はまた頭を上げて横になり、午前中は点滴とガーゼの交換の繰り返しだった。

 
 午前11時にお昼ごはん。
 この時点ではまだ右手に点滴につながっているため箸が使えず、アイに手伝ってもらわないと食事ができない状態で、匙を持ちながら、アイに肉を切ってもらって匙に乗っけてもらって食事をする状態だった。
 半分くらいは何とか食べられたが、体調的に完食はまだちょっと辛い状況だった。

 その後、午後も点滴が続く。

 手術後からこの頃までこちらが汗を沢山かいていたので、1日に2~3回アイに寝巻を換えてもらい、その度に体を拭いてもらった。(ただし下半身は自分でやったが、、)

 そしてこの日の点滴ノルマが終わった時に、針の刺しっぱなしは痛いし不便なので、看護婦にお願いして一旦抜いてもらい、翌日の点滴針はその日にさしてもらうことにした。
 こうしないと寝るときに迂闊に寝返りも打てないし、右手が拘束されて不便だからである。
 そしてこの針を抜いた直後から、精神的にも開放された気分になりこの日の夕飯からは自分で食べられるようになり、トイレなどかなり自分で動けるようになった。

 そしてこのタイミングで、会社の同僚や友人が何人か見舞いに来た。

 鼻にはガーゼがついたままで、出血状況もまだまだだったが、会話はかなりリラックスな状態で、少しは気を遣う応対が可能になった。
 

 手術3日目の土曜の朝、執刀してくれた担当医が現れ、鼻の状態をチェックするために診察室に呼ばれた。

 ここでようやく鼻の穴の中に詰めた綿とガーゼを手術後初めて抜いてみる。

 ガーゼを抜いた瞬間に持たされた顎下の容器の中に血がドボドボ落ちる。

 うわぁ、まだこんな出血状態なのかと自分は思ったが、担当医にとっては想定内のようで意外と冷静だった。

 血はまだ完全には止まってないが、大量にこぼれたのは溜まっていたからであって、状況は血の量が示すよりは落ち着いてきていたようだった。

 とはいえ、止血していないことには変わらず、また脱脂綿を詰め込まれる。

 本来この日に退院する選択肢もあったのだが、この朝の診察状況にこの日に退院するにはちょっと無理だなと悟り、当日の退院を諦める。
 退院したかったのは実はある会合があったからであるが、さすがにこの状況での参加は無謀であったことを自覚する。。

 ただこちらが自力で行動できるようになったので、朝食のあとにアイのヘルパーを打ち切った。

 そして一日ボーっと点滴を受けながらうつらうつら過ごす。

 食欲も復活し、食事もほぼ完食できるようになった。



 日曜日、朝から点滴はあったが、昼には終わり、昼過ぎに退院することになった。

 この時点で鼻のガーゼは一応とれることになった。

 しかし、まだ脱脂綿は鼻の穴に詰まったままであり、そのまま外を出歩くと外観上恥ずかしいので、看護婦さんにマスクをもらい鼻のあたりにティッシュを当てて退院した。
 自宅用の薬として点鼻薬、抗アレルギー薬、抗生物質を渡される。

 明けて月曜日、元の耳鼻科で診察を受ける。
ここで鼻の脱脂綿を交換される。

 この日から会社の勤務は始まったが、鼻に脱脂綿が詰まり、マスクで隠す日々が続く。

 昨日土曜日に再診の結果、鼻の脱脂綿も取れることになった。

 まだ鼻の奥に少し違和感があり鼻水にまじって鼻血があるが、概ね正常になった気がする。

 術後10日でようやく鼻で呼吸が出来るように解放された気分である。

 3月4日現在、今のところはこんな状況である。



2012年03月02日 中学の後輩に会った!
 昨日の某県人会で、偶然の再会?があった。

同じ出身中学の1級下の後輩が偶然上海にいたのだ。

 ン十年ぶりの懐かしの再会と行きたいところだが、残念ながら私は彼のことを元々知らなかった。

 実は私の出た母校は当時日本で1,2を争うマンモス校で、同級生だけで700人近くが在籍し、クラスも15クラスもあったので同学年でさえ一度も話をしたことのない奴がゴロゴロいる。

 更に私の下の学年は16クラスあったと記憶している。

 当時は正規の校舎ではスペースが足りず、プレハブの増設校舎で対応していたのが現状で、私も1年生の時はプレハブ校舎で一年を過ごした記憶があり、正規の鉄筋コンクリートの校舎がちょっと羨ましかったものである。

 そんな学校なので、一学年でも違ってしまうとほぼ全く他人と一緒である。
同じ部活や何かの行事で一緒にならなければ、まず顔見知りになることはない。

 ということで、彼の事は全く知らないに等しい人物だったが、上述のようなことを語り合える仲間と知り合えたのはとても嬉しいことである。

 これも上海ならではの人の縁ということになろうか。




プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

音響さんのこだわり復刻版
上海ワルツ記事目次
エクスプロアブログ同窓会


GOOGLEでブログ内検索

ブログランキング・にほんブログ村へ



空港ドットインフォブログ浦東空港虹橋空港北京空港広州空港香港空港天津空港青島空港ハルビン空港すいすいビザ

コメント一覧


記事タイトル一覧

カテゴリ一覧


RSS 1.0My Yahoo!に追加




上海すいすいビザ代行][空港ドットインフォ][上海の天気][音響さんのこだわり][上海ガイドブック手帳][日中地域交流会
[上海浦東国際空港][北京首都国際空港][天津濱海国際空港][広州白雲国際空港][上海虹橋国際空港][青島流亭国際空港]
Copyright(C) since 2007 カランドリエドゥモンド
h_12