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2012年08月02日 人形浄瑠璃の魅力
 私はかつてほんのちょっとしか人形浄瑠璃を見たことがないが、その人形とは思えない動きと表情に鳥肌が立ったことがある。

 人形に表情?などと疑問に思う人もいるかもしれないが、人形浄瑠璃が表現する人の表情や感情の機微は実に奥深く、下手をすると人のそれを上回る可能性だってあるのではないかと思うこともあるくらい絶妙なのである。

 手の動きや顔の上げ下げなど、人形であるがゆえにその動きの幅には限りがあるはずなのだが、それを感じさせない奥深い感情表現がそこにある。

 恐らく人の舞台が同じ役でも役者によって味わいが違うように、人形師によってもその表現の個性が違い、それがそのまま表現される役どころの内面表現の違いとなって現れ、その違いを楽しむのが浄瑠璃のツウな楽しみ方であると思われる。

 故に浄瑠璃においてストーリーというは、実はその楽しみ方に於いて第一義的に重要なものではなく、あの噺家だから寄席に行く、あるいはあの歌手が歌うからこのオペラを聴くといった、出し物にこだわるわけではないように、ストーリーは単に名人芸の魅力を引き出すためのツールでしかなく、ストーリーに囚われて浄瑠璃を見るのは実は何も浄瑠璃の魅力に気づいていないということになる。

 先日某市長から浄瑠璃のストーリーがああだこうだというコメントがあったが、あの発言は結局ストーリーにこだわり過ぎて、人形の表現する人の心の機微を感じられなかったのかなと思うと非常に残念な発言である。

 まあ本当かどうか知らないが、彼は先日の週刊誌の記事では昔不倫相手とコスプレを楽しんでいたという嗜好が描かれており、あれが本当だとすれば相手の女性の内面的な心と向き合うのはなく、単なる外観的なイメージで人と付き合っていたのかと思わせられ、そういう外面でしか人を捉えられないというのではないかという人の本質が見える。


 つまり、そういった彼のものの捉え方の本質が今回浄瑠璃への感想にも表れたということになる。
 そういえば、入れ墨だのタバコだの外面的な規制には厳しいが、人を人として捉える話はこの人からあまり聞いたことがない気がする。

 さて、当の地元で浄瑠璃について補助金の問題が取り上げられているが、まあ支える意思がないところに無理強いするのも馬鹿馬鹿しいので、例えばJALなど去年大きな利益を上げた企業にスポンサーになってもらい、日本の文化の国際PRのシンボルとして担ぎあげてもらうなどの別の生き残り策をさぐるのはどうだろうかと思う。

 目先のほんのちょっとのお金の問題であの浄瑠璃の名人芸が衰退してしまうのは実に惜しい話だと思う。


2012年07月25日 外灘の夜景は外灘から撮影した方がいい
 昨日浦東陸家嘴に行ったついでに、黄浦江沿いに出て外灘の夜の風景を眺めに行った。
 そして例の如くカメラを構えたのだが、どうも収まりが悪い。

 外灘の建物一つ一つをアップで撮るには遮るものが無く都合が良いのだが、全景を収めるにはあまり良いアングルとは言えない気がしたのである。


 外灘の建物というのは、それほど高い建物はなく、それが横に長く並んでいるため、風景も横方向に非常に長く、縦方向はあまり幅が無いため、それ写真に収めると画面中央に真横に光の線が描かれる格好になり、夜景の写真としてあまり格好の良いものではなくなる。



 ならば斜めからと思うが、陸家嘴側からだとどちらかというと取り囲まれるような恰好で外灘の風景が広がるので、斜めから撮影できるアングルはほぼないと言っていい。

 黄浦江の幅の広さが邪魔をするため、陸家嘴側から奥行きのある外灘ショットは難しいということになる。

 故に、外灘の写真を撮りたいと思う人は陸家嘴側に期待せず、外灘の遊歩道付近の至近距離、或いは遊覧船に乗って撮るのが最適だと思った昨日の結論だった。


2012年04月19日 インターネットは見た目ほど単純じゃない
 世界に窓口が繋がるという意味で、気軽にインターネット事業に飛び込む人がいるが、まあどんな世界でも同じだと思うが、実は成功するためにはその見た目ほど単純じゃないのがインターネットの世界である気がする。

 インターネット空間というのはバーチャルな世界であるが故の簡便性も存在するが、その構成要素というか配慮すべき要素は想像より遥かに複雑である。

 例えばインターネットショップを開店して儲けようとすることを考えた場合、私から見ればリアル店舗をオープンさせる方がよほど簡単だという気がする。

 もちろんリアル店舗は営業許可証やら店舗の準備やら何やらでそれ相応の投資が必要とされ、準備に多大な労力を要する。

 それに比べネット店舗はページ作成にまずそこそこの費用はかかっても、リアル店舗を開店することに比べれば遥かに容易にスタートすることができる。
 故に誰しもネットショップなら気軽に始められると思ってしまう。

 しかし問題はそこからである。

 リアル店舗であれば店をオープンさせた時に立地さえよければ何もしなくても客を掴むことができ、例えば流行っている店舗の隣に店をオープンすることが出来れば全く広告宣伝しなくても客は入ってくる可能性がある。

 それに対してネット店舗というのはまずその存在を知ってもらうことが難しい。

 当たり前の話だが、物凄いお金をかけて立派なサイトを構築しネット上に店舗をオープンしたところで広告も何もしなければ全く誰にもその存在を知ってもらえないのがインターネットの世界である。

 例えばそのネット店舗のページの同じサーバー内に、アクセス数の非常に多い超人気のサイトがあったとしても、ページ名がたった1文字違えば全く違うURLとなり、見つけてもらえないことになる。

 そのためネット店舗では、まずその存在を知ってもらうためにひたすら広告宣伝の努力が必要となる。

 費用をかけてのリスティング広告やバナー広告、そしてリアルなテレビやラジオ、はたまた新聞を使ったり人海戦術で名刺やビラに刷り込んだりしてとにかくその存在やURLを告知する必要がある。

 ひょっとするとその告知のための時間と労力はリアル店舗の開店を上回る場合だってあるかもしれないと私は感じる。

 そして大事なのはSEO対策と呼ばれるGoogleなどの検索エンジン対策で、その基本は何といっても他のページや自サイトのページどうしが繋がっていることになる。

 SEO対策にはいろんな諸説があるが、とにかく基本は意味のあるページとより多く繋がっていることであると私は思う。

 より多くの繋がり、つまりより多くのリンクの構築がユーザーの直接的誘導はもとより、SEO対策的にもサイトの価値を積み上げることになり有効な対策となるはずである。

 それ故SEO対策を主眼におけば、逆に一度作り上げたサイトは途中の都合で構造を換えたりすることは極力避けて、既にある繋がりを壊さないように注意する必要もある。

 例えばリアル店舗では例えお金がかかるにしろ店舗の移転や拡大・縮小などを行なうことによって店舗のコストパフォーマンスを容易に調整することが可能だが、ネット上のWEBサイトでは事はそう単純ではない。

 もし同じような外科手術をネットのサイト上で安易に行ない、URLの構造を変化させてしまえば、99%SEO対策などにマイナスの影響が出るの当たり前で、よほど緻密にやらなければアクセス数がプラスの状態になることは有り得ないのがネットの性質である。

 またリアル店舗において多用される店舗縮小や事業転換のリストラ的発想も、ネットの世界ではほとんど無意味で、マイナス方向の切り捨てをしてもハードディスク上のスペースがほんの僅かに空くだけでほとんどコスト削減には繋がらず、寧ろリンクの繋がりの消滅によるSEOのマイナス要素が大きい。

 故にもしサイト上にほとんどアクセスのない非アクティブなページがあったとしても、よほど間違っている情報などが載っていない限りは無理に削除したりせず、寧ろそのまま放置した方がサイト全体にはプラスに動くのがネットの発想である。


 そして例え1PVでもあればアクセスはアクセスであり、それをいかに束ねて1万PV、100万PVに持っていくリンク構造を構築するかがサイト構築のポイントで、1PVのアクセスを切り捨てない発想がネットで成功する基本のような気がする。

 もちろんサイト上で扱うコンテンツが人を惹きつける魅力的なものであるべきということは改めて言うまでもないことであるが、まあ、傍から見るほどインターネットの世界は単純じゃなく、無数の見えない繋がりによって価値が決まっていくので、リアル世界の発想はまず捨てるべきだという気がする。

 


2012年04月15日 中山公園の桜、新しいカメラの威力
 最近新しいカメラを購入したので、中山公園まで桜を撮影しに行った。

 新しいカメラは望遠が光学で16倍、デジタル込なら48倍までアップでき、ちょっとした一眼レフ並みの望遠性能で最近調子にのって写真を撮りまくっている。

 幸い天気が良かったのでいい撮影日和になったのだが、この写真は桜まで確か15mくらいあったが、見事この通りである。

 まあ画質はデジタルカメラなのでそれなりだが、まあ写真コンテストに出すなどでなければ十分である。

 ここまで綺麗にとれるとちょっと気持ちいい。

 中山公園の桜も捨てたもんじゃない。
 


2011年12月25日 クリスマスBGMアルバムを作ってみた
 人からクリスマスイベント用のBGMが欲しいと言われ、パソコンの中にあるそれっぽい曲をかき集めてクリスマスアルバムを作ってみた。

 最初は伝統的なスタンダード曲のオケ演奏版を集めてみたが、ある意味ちょっと単調になりすぎてしまった。

 そこで洋楽の有名な曲、例えばジョンレノンとかワムとかを混ぜた。

 さらにクリスマスとは関係ないが、セリーヌディオンとホイットニーとか歌声が綺麗な歌手の曲をいれてみると、かなり雰囲気は出る。

 まあこれだけでもずいぶんクリスマスっぽくなったのだが、BGMとしてリピートするには少し尺が足りず、渋さも欲しいなと、シナトラのホワイトクリスマス、さらにプレスリー、ダニエルクラールと、「ホワイトクリスマス」を連発してみた。

 不思議なことに同じ、「ホワイトクリスマス」の曲なのに歌手が違うと全く違う曲に聞こえ、連続で聴いても苦にならない。さすが力量のある歌手は違う。

 そして透明感のあるケルト系の音楽としてエンヤやケルティックウーマン、挙句の果てに「冬のソナタ」や「北の国から」なんかも混ぜ込んでみた。
 結局トータル2時間分にもなった。

 まあ節操のないクリスマスソング集になってしまった感はあるものの、BGMというのはじっくり音楽を聴くために流すわけではないので、雰囲気を作れて単調にならないという面ではある意味成功した感がある。

 実は今回このBGMを使ったイベントは自分も参加したので、自分も一緒になって昨日このBGMの中で食事をした。まあ案の定、みんな大して聴いていないがトイレとか静かなところではよく聞こえる。

 まあBGMとはこんなもんだろうと思っていった。


 ところが、なんと途中でお店のシェフがこのCDを欲しいと言ってきた。
 選曲がいいといってくれたのである。

 おおっ!

 寄せ集めに過ぎないCDだが、評価されてしまうとこちらも気分がいい。

 そんな好評価に気をよくした私はほろ酔い気分も手伝って、なんとそのCDを気前よくプレゼントしてしまった。

 まあ音楽のデータはあるので複製は幾らでもできるし、出費はディスク代くらいなものなので大したプレゼントじゃないのだが、喜んでもらえたことが嬉しいのである。

 昔取った杵柄もどこかで役に立つものである。

 でもそのCD、次のクリスマスまで使えませんからね(笑)



2011年12月19日 マッサージは寝ると勿体ない?
 先日、某日本のラジオを聴いていたとき、マッサージを受けている時間は寝るのは是か非かといったような話題をやっていた。

 つまりマッサージを受けている時間は気持ちがよいので寝てしまう可能性があるのだが、その人に言わせるマッサージを受けている時間に寝てしまうと、結果的にマッサージが終わってすっきりしたとしても、マッサージを受けている時の気持ちよさを体験できないので同じ料金を払っているのに勿体ないような気がするというのだ。

 でも人によっては、その気持ちの良さの中で眠りに落ちてしまうのも気持ちいいという人もおり、その番組では議論が分かれていた。

 つまり結果論としてのすっきりとした気持ち良さか、経過も含めての気持ち良さかである。

 まあこれには色々意見があると思うが、私はいつも同じ人を指名してそのマッサージ師との会話が楽しいのでマッサージに通うということもあって、どちらかというと寝てしまうと勿体ない派である。

 もちろん疲れているからマッサージに通うので、長時間コースの場合はたまに寝てしまう場合もあるが、寝てしまうと結果として疲れが取れたとしてもやっぱりちょっと後悔加減である。

 うーんちょっと貧乏性かなぁ。。。
 



2011年12月07日 『もろびとこぞりて』っていまどき凄いネーミングだ
『もろびとこぞりて』はお馴染みのクリスマスソングでほぼ誰の耳にも馴染んでいると思うが、振り返ってこのタイトルを考えると凄く古めかしいネーミングであることに気が付く。

 いまどき「諸人(もろびと)」なんて誰も口語調では使わないし、漢字で書かなければ意味だって理解しない場合がある。

 また「こぞりて(挙ぞりて)」だってほぼ同レベルで、まあ古文を少し勉強している人なら理解できるかもしれないが、やはりこんな言葉は日常には使わない。

 二つ合わせて「みんな揃って」って意味になるのだがこのタイトルの意味を理解してこのメロディや歌詞を口ずさんでいる人はどれほどいるのだろうか。

 そんな今や化石と化してしまったような日本語で構成されているタイトルだが、今でも堂々と「もろびとこぞりて」のタイトルが市民権を得て、クリスマスの定番ソングとして通用しているのは非常に不思議である。

 ウィキペディアによればこのタイトルは1923年に讃美歌を翻訳したときにつけられたタイトルのようだが、当時ならともかく現在は言葉としてはまず意味が通じず、もはや言葉の意味を離れた固有名詞として化してしまっている。

 歌詞もちょっと古めかしく、意味を理解するのに辞書が必要なほど古びている気がする。

 まあ今のところ全く通じないわけではないので、このタイトルを替えようとか歌詞を替えようという話は出てきていないようだが、同じ日本語の歌詞なのにこれほど時代の隔たりを感じる歌も珍しい。

 ただそれは逆にこの曲がそれだけ長く愛され続けている証拠でもあり、そんな何世代にも渡るような長い年月の季節の定番となっている曲が他にあるだろうかと考えてしまう。

 ちょっと考えてみたが今のところそんな曲が思い浮かばないのである。

 そんな『もろびとこぞりて』であるが中国ではこんな季節を演出するBGMを耳にする機会が日本に比べ少ないのがちょっと寂しい。


2011年11月06日 やってみたい職業
 現在フィギュアスケートの大会が上海で行われているが、まあ自分の見識眼は健在のようで、音楽と選手の動きを見て、この選手は転ぶだろうなと感じた選手はまずジャンプに失敗することを当てることができる状況は今も変わっていない。

 つまり音楽と動きがシンクロしていないことで、選手の動きのリズムの悪さを見抜けるというか感じ取れてしまうのである。

 フィギュアスケートというのは音楽を使う数少ない表現競技であり、そのため音楽とのかみ合わせが競技者の動きに大きな影響を与えている。

 たとえ一発目の高度なジャンプが成功して調子がよさそうに見えても音楽に乗りきれていないポイントでジャンプを行っている場合は、後々にズレを生じさせ、結局別のポイントで転ぶ。

 また選手の調子もさることながら、音楽自身が選手が滑りにくいであろうなぁという不適切な選曲が行われているようなケースも沢山あり、実際あんな曲では滑りにくいだろうと感じた場合は成績も伸びてこない。でもそういう選手の技術が低いかと決してそういうわけではない。

 つまり力はあるのに音楽への対応が適切ではないため実力を発揮できていない場合があると私は思うのである。

 そんな時、ああそばへ行って私がアドバイスできたらなぁと僭越ながら思ってしまう。こんな音楽を使ってこういう組み立てにしたらもっと表現が伸びるでしょうと感じることが非常に多い。

 故にもし人生許されるのなら、フィギュアスケートのミュージックアドバイザーのようなことをしてみたいのである。

 もちろん、それが生活できるほど職業として成立するのかわからないし、こんなスケート素人が首を突っ込める世界ではないのかも知れないが、過去に音楽を絡めた表現活動をやってきた自分にとっては、今のフイギュアスケート界の音楽の使い方の現状を見ていると口を突っ込みたくウズウズするのである。
 


2011年11月03日 涼しくなったらブルックナー
 ブログとして音楽について書くときは比較的誰にでもわかりやすい曲についてなるべく書こうと思っているが、まああまりライトな曲ばかり聴いていると思われるのも嫌なので今回はついて来れる人が減ってもいいので少し重めに、、ブルックナーの話題。

 年がら年中クラシックの曲を聴いている私でも、さすがに上海の真夏の時期にはブルックナーの曲を聴こうとは思わない。

 上海の真夏の暑さに頭も心も参っていて、ブルックナーの交響曲が紡ぎだす分厚くそして思慮深い音楽の響きに、とてもじゃないが頭も心もついていけないからだ。

 しかし秋に入り気温が下がり始めると、途端に頭と心の重しが取れたようにブルックナーの曲を受け入れる余裕が生まれる。

 その中でも現在はまっているのが最後の未完の交響曲である第9番である。というかブルックナーのCDはほとんど実家に置いてきてしまっていて、手元にあるのはカラヤン&BPOのブル9と、ベーム&VPOの4番くらいなものであるので仕方ない。
(肝心なチェリビダッケエディションは家でしっかり眠っている)

ブルックナーの曲は全体的にアダージョ的な雰囲気が漂っているイメージがあるが、現実的にはそうではなく、その曲に人間の内面の激しい信仰心的な動機がずっと漂う。

 とくにこの第9番は死を間近に感じたブルックナー自身が己の激しい炎を燃やすがごとく強い音を響かせる。「愛する神へ捧ぐ」と譜面に記されたとされるこの曲はそんじょそこらのロックなんぞ顔負けの非常に重厚かつ激しい音楽が展開する。

 そして断筆となった最後の楽章では死への悟りのような主題と、死が差し迫った瞬間に神の降臨のような光が差し、最後は静かなコーダで天に召されるように音が消えていく。
 そこがブルックナー好きにはたまらない至福の瞬間をもたらし、心に余韻を残す。。。

 こんな風にたっぷり60分もかかかる音楽をじっくり聴くにはやはり真夏の上海は暑すぎる。涼しくなって体力と集中力に余裕があってこそのブルックナーなのである。

 まあただ出来ることならCDではなく、いい環境、いいオケ、いい指揮者、そして良い聴衆と一緒に(ちょっとイヤミか)ナマで聴きたいというのが本音である。
 ブルックナーの響きを感じるにはやはりCDでは物足りなすぎる。。。
 


2011年10月28日 勇気を与えてくれる「運命」
 以前、テレビで音楽評論家だか誰かがベートーベンの曲は勇気を与えてくれると言っていたのを思い出した。その中でもやはり「運命」が最高だと。
 あらゆるクラシック曲の代名詞ともいえる、ベートーベンの交響曲第5番だが、あまりにも一般人も含めてポピュラーな曲となっているため、ある意味マイナーであることを誇りとしているインテリなクラシック通には少々人気がない面もある。

 まあそれはそれだけこの曲が人々の印象に残る曲であることの裏返しであり、多くの人に受け入れられる何かをもっているということであろう。

 とはいえ冒頭のジャジャジャジャーンがあまりにも有名で、それ続く疾走するような第1楽章の旋律もかなり知れわたっているはずだが、そのあとの第2楽章以降はどのくらい聞かれているのだろうか?

 「運命」は全曲を聴き通すとおよそ30分くらいかかるが、この曲の長さがクラシック音楽を多くの人々がクラッシックに馴染まなくさせている理由の一つでもある。
 つまり現代の生活の中ではそんなに長く音楽をじっくり聞く時間が取れないのである。
 故に5分程度で聴き通すことのできる第1楽章だけであれば、広く市民に浸透することが可能だったわけである。

 でもこの曲に限らないがクラシックでもポップスでも音楽はやはり最初から最後まで聴き通すことが基本で、この曲も実はじっくり通して聴くことができれば第一楽章以上にもっと格好いい面が見えてくるし一曲を聴き通すことに意味があるとわかってくる。


 この曲は多くの評論家が評するように苦悩の暗から喜び明へ走り抜ける楽曲構成が非常に気持ちよく、未来に対して明る希望を与えてくれるところに最大の醍醐味がある。つまり前へ進むこと勇気を与えてくれる曲構成になっている。

 多くのポピュラー曲がそうであるように、クラシック音楽では暗なら暗、明なら明と一つの雰囲気で曲が包まれているわけではなく、途中で次々に曲調が変化していくところに決定的な違いがあり、それをうまく導ける音楽を構成しているというところにこの作曲家の凄さがある。

 故に例えばモヤモヤした状態でこの曲を聴きはじめると、冒頭のジャジャジャジャーンという音楽動機でまず心が揺さぶられ、その後の不安定かつ圧迫されるようなメロディとリズムによって心理学的用語でいう同質効果で、実は心が安定し始める。
 そしてそのまま緩徐楽章である2楽章で心の平静を取り戻し、3楽章でそろそろと再稼働をはじめ、4楽章の歓喜の音楽の希望へとつながる。

 実はこういった雰囲気運び、心の導きのうまさがこの曲の価値を決定づけている。

 故に聴き終ったあとに気持ちがスッと晴れ元気になれ、そういった面でこの曲は人類に勇気を与える最高の名曲であると評されているのであろうと思う。

 普段の生活の中で、思い悩みイライラする心のモヤモヤから脱出したいときはぜひ恥ずかしがらずこの曲を聴くことをお勧めしたい。勇気を与えられ心の健康を取り戻すことができると思う。

ぜひ「運命」を信じてみてください。^^b



プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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