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2011年01月31日 浦東空港ターミナル前の大渋滞
一昨日、ちょっと人を見送りに浦東空港まで行ってきた。
朝7時くらいに空港に着いたのだが、浦東空港のターミナルの一般車レーンが思いのほか大渋滞していた。
まさに春節前の出発ラッシュだったようで、自家用車で乗り付けて大きな荷物を必死に下ろしている人の姿がたくさんあった。
幸い私はリムジンバスで空港に着いたので、一般車レーンの流れに巻き込まれず普通に到着することができたのだが、一般車やタクシーで来た場合は大変そうである。
 ひょっとすると出発でも到着階に乗り付けたほうが結果的に早いかもしれない、そう思うほど車は多い。


で、実際ターミナルに入ってみるとやはりチェックイン待ちの長蛇の列ができていた。
上海で働き、母国で一時帰国する人、そして海外旅行に出かける中国人たち。まさに民族大移動である。

この時期帰国したことのない自分にとってはちょっと驚きの風景であった。



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2011年01月31日 「スポック博士の育児書」と「日本経済」
 最近ラジオで「スポック博士の育児書」なるものが人間の人格形成に大きな悪影響を与えているという考え方が出ているとの話を耳にした。
 この「スポック博士の育児書」なる書はアメリカの小児科医スポック博士が1946年に出した本であるが、子供が泣いても放っておけとか、母乳は決まった時間に与えなさいとか、離乳食を早めに始めなさいとかかつての育児の伝統概念を覆す内容で大ベストラーであり続けている本とのことである。
 日本でも昭和41年に翻訳され、昭和55年からは母子手帳にも記載されているという。

 まあ子供を育てたことがある人なら、誰でも目を通したり耳にしている書籍であるらしいのだが、子供を育てたことのない私にはなじみの薄い本である。
 そんな有名な本だが、最近になって多くの人がこの本を否定し始めているという。

 ある人によるとこの本に基づいて育てられた子供はどうも人格の面で欠けている面があり、異常行動をとったり性格に問題が表れやすいのだそうだ。はたまた栄養面できちんとした正しい段階を踏まないで育てられるのでアトピーなど健康上の問題が表れやすいとしている。

 私はこの件の因果関係について、きちんとした調査データを持たないので、積極的な肯定はできないのだが、これらの意見は日本の社会現象の歴史推移と照らし合せてみると何となく腑に落ちる面がある。

 例えば日本の中学校・高校で校内暴力が顕在化したのは1970年代後半から1980年代
とされているが、ちょうどスポック博士の育児書が翻訳され読み始められた時期に生まれた子供が中高生になった時期と一致する。つまり、スポック博士の育児書で育てられた子供が問題を起こしていたのではないかという仮説が成り立つ。


 その後日本社会は子供の成長に関する問題や、オタク、アダルトチルドレン、引きこもり、ニートなど、精神的に未熟で大人に成りきれない人たちをあらわす社会問題用語が次々生まれている。キレる17歳などという言葉もあった。どれも社会コミュニケーションの面で問題があるとされている事象だ。
 さらに1990年代後半には子育てができず子供を虐待する親や、モンスターペアレンツなどの言葉が聞かれ、学級崩壊なども発生するようになった。これはスポック博士の育児書で育てられた子供が親になりはじめた時期と一致する。
 1980年代頃からアトピー患者の増加など健康的な被害も多く現れている事象はよく耳にする。

 これらの原因として一般的には戦後の急激な経済成長や核家族化問題、化学物質などの食料事情の変化などが言われているが、時代的タイミングから言えばスポック博士の育児書によって育てられた子供が、人格や健康に悪影響を受けているのではないかという疑いの面も否定しきれない。
 上述の人によると母子手帳にスポック博士の育児書が記載されてから2年後の昭和57年からアトピー患者が急増しているという。キレる17歳も実はこの時期に生まれている。

 そういえば自分の周囲にいたアトピーの人は性格がかなり変わっていた人が多いような気がする。この話を聴くまではその人の個性や遺伝的体質の問題だと思っていたが、実はスポック博士の育児書の影響なのではないかと思えば納得できるような面もある。確かにその人の親は、この育児書を熱心に読んでいたとされるインテリ層のはずだった。決め付けはよくないが可能性はある気がする。

 そしてこの育児書普及の影響があるのかないのかわからないが、日本そのものは現在その社会的病理、精神的病理によって若年層の活力が失われている。さらに時を同じくして現在の日本経済的は長期に停滞している。つまり本来社会を支えるべき日本の若者に元気がないので経済が停滞していると言えなくもない。

 こうやって三段論法で考えていくと、ひょっとするとスポック博士の育児書が日本の若者を、あるいは日本人を駄目にしそして日本経済を駄目にした要因であると言える可能性もある。


 まあ日本経済との因果関係に関しては大いなる研究が必要だが、一つだけこの育児書に対して、というか育児に関して確実に言えることがある。

 それは、育児は人の一生を決めるものであり実験や検証がなかなか難しいことであるが故に、何百年、何千年と培われてきた先人たちの伝統的な知恵を目新しさだけでおいそれと変えてはならないということであろう。つまり伝統を否定して新しい考え方を取り入れることには余程慎重にならなくてはならない。
 試験管の中の化学実験とは違い、育児は一瞬一瞬が取り返しのつかない人間の人生に対する働きかけであり、きちんとした実証なく伝統を否定してまで新しい育児法を実施するというのは無謀な冒険としか言えないのである。
 そういった意味で言えば既にスポック博士の育児書は否定するに値すると言えるのである。

 まあ、これらの話を総合していくと日本経済復活のためには実はまず母子手帳の見直しが必要なのではないか?そういう結論に帰結してしまうが果たしてどうだろうか?そんな今回の話題である。

 





2011年01月28日 299元のステレオミニコンポ

中国にきてから久しく待ち望んでいたステレオミニコンポを先々週ようやく購入した。
日本から音楽のCDを数十枚持ち込んでいたいのだが、なかなかそれらを満足に聴ける環境がこの5年の間、ほとんど整えられぬままにここまできてしまった。
ノートPCのCDドライブは壊れたし、DVDプレーヤーもあるにはあったが、DVDプレーヤー、テレビともに音声端子に余裕がなく、ヘッドフォン端子もついていなかったので、結局は外部スピーカーの環境も準備できなくテレビのスピーカーを通して聴くほかなかったのである。音楽を聴くたびにテレビをつけるのも面倒で音質の面でも不満が多かったので本当にたまに鳴らすだけに留まっていた。
 しかし最近そんな環境に耐えられなくなり、ようやくの重い腰をあげて電器屋へ買いに行った。
とにかく高級品はいらないからCDの音楽を楽しめる機器、ヘッドフォン端子で音楽が聴ける機器を探しに行ったのである。

最初はCDラジカセを想定していたのだが、先日スーパーで見たら安いコンポならCDラジカセとあまりかわらない価格で買えるということがわかりコンポを購入することにした。
そして見つけたのが299元のCDミニコンポである。コンポといってもDVDやCDが再生できるドライブとラジオとスピーカーがついただけのものである。
ヒュンダイ(現代)製で、まあ写真のように赤と黒のデザイン性も何もあったもんじゃない外観だが、今の私にはとにかく機能があればそれでよかった。

 さて買ってきて早速音楽を鳴らしてみた。

 このコンポはスピーカーの形が意味なく長方形で、無用に重低音を強調しようとしており、音質がにごっている。ドラムの重低音の響きを楽しむだけのロック系の音楽ならこれでもよいのかも知れないが、繊細さを必要とするジャズやクラッシクの音楽を鳴らしてもこのスピーカーではかなり音が濁ってしまう。実は中国のCDには意味なく馬鹿の一つ覚えのように重低音を強調した音質の悪いCDも横行している。どうも意味の無い重低音信仰が中国にはまだまだあるようだ。本当の意味で音楽の美しさを聞き取れていないのが中国の実情ということであろう。

 さて、この音質の低さは299元ならば仕方ないところであるが、それでもテレビのス ピーカーで聞くよりは全然マシであるのも確かである。
 とにかく、このコンポを買ってきてから毎日日替わりでCDをかけて音楽を聴いている。日本の実家にはまだ1000枚以上のCDが眠っており、今回ようやく中国の家で音楽を聴く体制が整ったので、また帰国するたびに少しずつ運ぼうかと考えている。



2011年01月25日 電池切れのガス台
昨日、数週間ぶりに料理をしようとガス台にフライパンを乗せて火をつけようとしたが点かなかった。

あれれ?

ガス代は先日払ったし、湯沸かし器は使えるのでガスが止まっているわけではない。
火が点きにくいのかと思い、チャッカマンを使ってみたが、やはり結果は同じだった。
どうもガスが出ていないようだった。
ガス台の元栓とか色々チェックしてみたがやはり点かないし、ガスも出てこない。

うーん、どうしたものか?

通常操作に行き詰ってしまったので、ガス台を持ち上げてガス台の底を見てみた。
すると、見慣れないボックスがガス台の下についていた。

何だろうこれ?

恐る恐るカバーを開けてみると、なんと電池が入っていた。

ガス台に電池?何のために??

少なくとも着火の火花は出ていたので火花は問題なかったはずだ。
私の知識の上では、電池は電気火花以外に使われるという認識はない。
でも、やはりほかに原因となりそうな要因は見当たらない。

やっぱり、これが原因か?

うーん、とにかく電池を換えてみよう。

そうして今日電池を買ってきた。日本で言う単一電池なのでかなり大型の電池でありコンビニなどでは買えなかったのでわざわざスーパーまで行ってきた。
そうしてもう一度ガス台を持ち上げ、電池を換えてみた。

さあ恐る恐るガス台のノブをひねってみた。

ジジジ ボッ!

あ、点いた。見事に点いた。
やはり原因は電池切れのようだった。

インターネットで色々調べてみると、ガス台はやっぱり電池が切れるとつかなくなるらしい。生まれて初めてこの事実を知った。

しかもその理由は、電気火花のためではなく、温度センサーのため?のようなことが書いてあった?でも正確な答えはまだ見つけていない。とりあえず中国特有の状況でもないらしい。

 まあ、電池の役割はわからなくとも、とりあえず安全にガス台が使えるようになったので一安心というところである。

 電池の役割についてはこれからゆっくり調べようと思う。


2011年01月19日 現時点で高鉄の切符は普通に買える。
昨日同僚の出張のために21日金曜日分の蘇州行きの鉄道切符を買いに行った。
もともと本人は前日に買いに行けば良いと思っていたようだが、春節の移動「春運」が始まりつつあり切符が20分で売り切れたなどというニュースも目にしたので、様子を伺うためにもお節介を焼いて昨夜虹橋駅まで買いに行ってみた。

 物凄い人の数を覚悟して行ったのだが、上海虹橋駅についてみるとそれ程でもなく却って普段より少ないくらいだった。
 まあ上海虹橋駅は原則として高速鉄道の列車しか発車せず、東北や内陸部へ向かう列車はほとんどないので春節で故郷へ帰る人達とは客層が違うのかもしれない。

 切符売り場も同様だった。

 今回は自動券売機に並んだ、、、というか購入中の人の後ろに並んだので行列を並んだというほどの感覚ではない。実際機械を操作して切符を探してみたら、希望の列車の切符はすぐ買えた。他の列車も特に売り切れになっているような様子はなかった。

 どうやら売り切れ続出になっているのは長距離の普通列車のようで、上海と南京の区間しか走らない列車への影響は少ないようだ。 参考までに北京や天津までの新幹線切符を検索したら、案の定売り切れの列車が多かった。とはいえ絶対に買えないというほどでもなさそうである。

 まあ春節は2月3日であり、そこまであと10日以上もあるので現時点では休みをとって帰れる人はそれほど多くないかもしれない。
 短距離あるいは高鉄(新幹線)の切符は今なら普通に買えるということがわかり、春節の予定を未だ決めていない自分にとってはありがたい状況であった。



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2011年01月13日 ひとめぼれだった
先日のブログで、自分の買っていた米の銘柄を「コシヒカリ」だったと思い込んでいたが、昨日家で再確認したところ、コシヒカリではなかったことが判明した。

 実は「ひとめぼれ」だった。

中国語で、「一見鐘情」と書き、まさしくひとめぼれの意味の名がついている。
記憶だけでモノを書いてはいけないなとちょっと反省した。

「ひとめぼれ」はササニシキに代わって東北の代表銘柄になっているお米で、実はコシヒカリと初星という品種の交配によって生まれたらしいから、まあ私のコシヒカリと勘違いした印象もあたらずとも遠からじだったわけである。

 残念ながら私の買った米は日本産ではなく中国東北産だが、最近の中国米は日本より品質管理が厳しいと聞くのでまず品質の面でそれほどの差はないと思われる。
 そのかわりブランド米であるゆえに、値段もかなり高く5kgで70元以上だ。米売り場の中ではかなり高級品になる。

 まあ食事の中で、何を一番おいしく食べたいかを考えたらやはりご飯が一番なので月あたり何十元も違わないのであれば、米はケチりたくないのでこの米を買った。
この米は粘性が強くモチモチしているので結構満足している。
 本来もち米を使うお煎餅もこの米から作れそうである。

「ひとめぼれ」とは実に名前もいい響きである。




2011年01月12日 知識の羅列はわかりにくい。
今日は一日文章の修正などに明け暮れた。
細かい情報がたくさん並んでかかれていた文章だったのだが、整理がきちんとされておらず、文章としてかなり読みづらかったのだ。流れや構成がよくないのは無論のこと、インデントや番号の付け方がぐちゃぐちゃで、こりゃ誰も読みたくないだろうと逆に感心したほど整理がされていなかった。

 まあそこまでひどくなくても、 文書というのは長くなればなるほど山谷を付けなければどんなにいいことが書いてあってもわかりにくくなる。
 特に知識や情報を紹介する文章などは、全体の中の位置付けや構成をきちんんと把握せず書かれていると、文章として明らかに支離滅裂な状態になっており、こちらがその知識の専門家でなくても文章状態からその文章を書いた人が本当の意味でその知識を把握していないことを見抜けてしまう。

 また単に知っている知識をこれ見よがしに垂れ流す文章もやはり読んでいても苦痛である。ブログなどで専門家を名乗って知識を鼻にかけるような文章も時々みかけるが、どうもそういった文章は鼻につく。そしてそういう文章に限ってどうも書き手がきちんと情報を整理した形で把握できていないんだなぁということを見抜けてしまう場合がある。勉強不足が見え隠れするのである。

 たぶん書いた本人は自信たっぷりに書いているのかもしれないが、そんな文章を書くこと自体が既に青さを露呈していることに気づかないうちは駄目である。
 まあ文章を書く人が慎みを学ぶかどうかは各自の自由だが、全体が見えずに知識が羅列されたような文章はやはりわかりにくく、そんな文章はどんなに正しいことが書かれていても意味がないのである。

 文章を直しながらそんなことを思った一日であった。


2011年01月09日 自分で炊いた飯が一番うまい
久しぶりに飯を炊いた。ここ半年ばかり料理をしていなかったのだが、どうにもうまいご飯が食べたくなった。
夏の上海は暑いので台所に立つのは苦痛で、その上買い物に行く時間がなかったり素材の管理が面倒くさかったりして料理を放棄していた。
 つまりここしばらく外食や弁当で食事を過ごしていたのだが、やはりどうにもうまいご飯が食べたくなった。
 中国生活の場合、他の外国と違ってどんな店でも白米のご飯は食べられるので、その点でホームシックにかかるようなことはないのだが、どうもおいしくない。もちろんまずいという程のものであればそのお店には行かず、まずさを感じない程度なら普通に食べるが、それでも決して不満がないわけではない。
 どうも上海、というか中華料理系のお店は総じてご飯に力を入れていない気がする。それは日系のお店でも同じで、以前上海の某日系中華料理店がうまいという評判を聞いて食べに出かけたことがあったが、確かに料理はそれなりにおいしかったが、ご飯がボソボソだった。
 「なんだこのお店は表面上の味ばかり追及してて、もしかして本当は料理の基本ができていないんじゃないか?」と思った。それ以来その店にはほとんど足を運んでいない。そのくらいご飯の印象が悪かった。
 また例え日本料理店でも、本当にうまいと思えるご飯には滅多に出会わない。この4年余りを思い出してみてもご飯のおいしさが印象に残っている店は上海でも2~3店舗しかない。あとは及第点ではあってもとても印象に残るようなご飯には出会わない。


 結局そんな環境が続くとおいしいご飯が恋しくなる。すればおいしいご飯は自分で炊くしかない。少なくとも自分が知る限り自分で炊いたご飯が上海生活の中で一番うまいと感じる。
 そんなに自分で炊いたご飯が好きならば毎日自分で炊けばいいじゃないかと思われるかも知れないが、自分自身がご飯に求めるレベルが高いので、それが自分自身で面倒くさいのである。
 何故ならおいしいご飯を炊くには手間がかかる。
 決して特別なテクニックがあるわけではないし、お釜を使っているわけではない。普通の安い中国の炊飯器を使っている。
 ただ基本に忠実に炊いているだけだが、実はその基本が面倒くさい。
 
 ①まずご飯を研ぐ。洗うではなく研ぐ。ご飯の糠をとる作業である。水を入れて手のひらを使って押すように米と米をぶつける、力を入れると米粒が割れるのでほどほどの力で水を入れ替えながら4~5回行なう。
 ②研いだお米をザルにあけ、水を切って乾燥させる。30分から1時間程度が理想的。こうすることによって研いだ米から水分を抜き炊いたときに水を吸収しやすくするためである。
 ③水を切った米を今度は水に浸す。乾いた米に今度は水を吸収させる。一般的には1~2時間が良いとされているが私はもう少し時間をかけて2~3時間をかける。 
 ④頃合を見計らって炊飯器のスイッチを入れる。中国なら竹炭などを入れておくとなおよい。中国の水は硬水なのでカルシウム分が多く、そのまま炊くとカルシウムが米に付着して水分の吸収を妨げご飯がぼそぼそになるのだが、竹炭を入れておくことにより、それを防いでくれる。
 ⑤炊き上がったら10分以上蒸らす。
となる。


これだけでご飯はおいしくなる。これで火加減を絶妙にコントロールしてくれる日本の炊飯器を使ったらさらにうまくなるのだが、中国製の炊飯器でもこうやって炊くことによって少なくともそんじょそこらの飯よりは断然うまくなる。米も高級品は全く必要ない。(とはいえ私は中国国内産のコシヒカリとかを使ってしまったが)
ただしお分かりのようにやたらと時間がかかる。そこがかなり面倒くさい。
もちろん自分で炊くときに基本に手を抜けば、そんじょそこらのご飯と同じレベルになってしまうので意味がない。だから面倒くさい。
 
よく中国でご飯がまずいという人はお米や炊飯器などのせいにしたがり、やたら高級品を求める傾向にあるが、確かにその差はないとは言えないが、私は炊き方による差が一番大きいように思う。強いて言えば水の影響は大きいのだが、竹炭の工夫など炊き方を変えるだけでやはりご飯はうまくなる。
 まあ自分の手間ひまを惜しんでハードに理由を頼って美味しい物を食べようという根性がまず駄目であろう。
うまいものには手間ひまがかかるのである。

やはり自分で炊いた飯がやはり一番うまい。


2011年01月06日 カンパニーの語源
昨年の話になるが、久米宏さんのラジオ番組で「カンパニー(company)=会社」の語源の話をしていた。
それによると、カンパニーの語源というのは「com=一緒」と「pan=食べるパン」という言葉が合わさったもので、パンを食べるためのお金を一緒に稼ぐための組織が「カンパニー」ということになるらしい。
 つまり、会社で働く者はある意味運命共同体の意味を持ち、一緒でなければ「パン」をお互い食べられないという意味を含んでいる。

 実はコンパニオンという言葉も語源が一緒らしいが、何故コンパニオンという言葉が現在のような接客業の女性を指すようになったのかはよくわからないがやはりそういった「食べる」ための組織を意味しているという。

 こういった意味から考えると、中国の会社のように一人のラオパンがふんぞり返って従業員をこき使うよう組織形態は、会社とは言えてもおよそカンパニーとは言えないようだ。あまりにも収入の格差と権限の差が大きすぎるからだ。

 つまり近代的なカンパニーとは、社長からヒラまで、立場や責任の重さ、賃金の額に差はあっても、それはあくまでもロールプレイングとして相対的なものであり、中国のような絶対的な権力の差ではなく、カンパニーとしての運命共同体的意味は変わらないというものである。
 そういった意味で、近代的なカンパニーにおいて資本家と労働者は相対的な意味でしかないということにもなる。

 ちなみに「会社」という日本語は単なる人の集まった組織という意味が本来の語源のようで、必ずしも経済単位としての企業を指すものではなかったらしい。


 さて、こういったカンパニーは「パンを食べるため」の組織であるからして、お互いにパンを食べるという同じ意識をもっているのが普通で、そこに同じ意識を持っていない人間が紛れ込めば、カンパニーがカンパニーとして機能しないのは自明の理であり、パンは食べられなくなるのが人の世の常である。

 明日のパンを食べるためにカンパニーとして仕事をする。カンパニーの誰かがサボったら明日からパンが食べられなくなる。つまりは死んでしまう。当たり前のことなのに実は理解していない人がいることに最近驚かされる。



プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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