クリスマスも終わり年末に近づいてきたので、チェリビダッケ&ミュンヘンフィルの第九を聴いた。
といっても彼の第九は日本人がいつも聴いている年末向きの第九ではない気がする。
どこがどう違うのかというのはなかなか説明しずらいが、年の瀬を追いたてるような演奏にはなっていないのである。
氏の振る演奏というのはいつも響きを大切にしながら音楽を奏でているのが良くわかる。
故にCDを通して聴いていても雑味な響きが残っていない。
ホールに綺麗に拡がって響きあう様が良くわかるのである。
彼の得意とするブルックナーのオルガントーンというべき音の柔らかさが、このベートーベンでも十分に発揮されており、決して透明感のある音ではないのだが柔らかく溶けているのである。
これが他の指揮者だと、どんなにいい演奏でも意外と音と音がぶつかってうまく溶け合わず、綺麗な響きとして残らないことがしばしばあるのである。
そして彼はゆったり目のテンポで、力感は見せても力まず自然に淀みなく音を走らせていくのである。
彼の演奏を聴いていると、ベートーベンがいわゆるベートーベン然としているような、あのいかめしい表情の肖像ようなイメージの型にはめた音楽ではなく、もっと人間らしく素直な表情を見せる自然な音楽として響いてくるから不思議だ。
どちらかというとクラシックというよりジャズや映画音楽に近い雰囲気であり、宗教的なデバイスがかった音ではなく、一人の等身大の人間の心が素直に表れている気がする。
フィナーレとなるあの合唱の部分も、堅苦しい日本語訳があほらしくなるほど生き生きとした人としての素直な喜びにあふれている。
きっと多くの人は第九という曲を宗教がかった恍惚的な音楽として捉えている気がするし、毎年合唱に参加しているような「第九マニア」たちは恐らく第九を非常に高貴な崇高な音楽として捉えて歌っているに違いない。
しかしチェリビダッケの第九を聴いていると、どうもそういった「型」は邪魔になってくる。
彼の演奏するこの曲はもっと人の優しさにあふれた音楽なのだ。
特に第三楽章などはその優しさに自然と涙がぽろぽろとあふれてくる。
例えば、この音楽はある職人の出世ストーリーのようなイメージでとらえると分かりやすいかもしれない。
第一楽章は、恐る恐る勇気を持って踏み出した壁にぶつかりながら開拓する精神
第二楽章は、試行錯誤の一進一退、一喜一憂の日々と大きな夢へ近づきそうな予感
第三楽章は、ふと立ち止まり過去を思い出し思慮にふける時間。
第四楽章は、夢がついに徐々に実現へと花開き、喜びがふつふつとわきあがる。
そして苦労を共にした仲間と喜びの宴、最後はどんちゃん騒ぎへ
というような感じである。
さて共感してくれる人はいるだろうか?
そんな音楽が私のチェリビダッケの第九である。