最近、日本の政界で改憲論議が盛んに論議されているようだが、政治家たちが改憲を叫ぶ姿にどうも違和感を感じる。
何故なら、憲法というのは権力者に対して暴走をさせないために国民がはめた足かせのための決まりだからである。
つまり政治家などの権限者がたちが憲法を変えたがるのは、その足かせが不自由だから外せと言っているのに他ならず、憲法が存在する意味を考えれば政治家が不自由を感じるのは当然であり、国民からすればそのこと自体が大事なのである。
今の憲法は外国から押し付けられた憲法だから自主憲法を制定したいという声もあるようだが、欧州などの諸外国などの場合、その憲法の多くは市民革命などによって国民が勝ち得た結果生まれたもので、国民が憲法制定によって権力者に対して足かせをはめるという意味があった。
しかし日本の場合は、明治維新以後の戦前に市民革命的なものが成立せず戦争へ暴走してしまった苦い歴史があり、結局自ら民主化が達成できなかったため諸外国から敗戦という形で市民革命と同様の結果がもたらされ、今の憲法制定となった。
つまり日本国民が市民革命的な自浄能力を持たなかった代わりとして、諸外国から日本政府の暴走防止の足かせとしてはめられたのが日本国憲法という見方もできるのである。
この多くの犠牲者を出して敗戦するまで国を変えられなかったという自浄能力の無い我々の国民性というものは大いに反省すべきところだが、こういった長年培われてきたものは容易に替えられるものではないと思う。
こんな国民性の中で、国民からではなく政治家から憲法改正の声が出て来るのはどういうことであろうかと考えてしまう。
政治家達が今の憲法の範囲で政治家が感じる不自由さは何か?それは今後暴走するきっかけにならないのか?
本当に憲法を変える必要があるのなら、その必要性をきちんと国民に説明し国民に請うべきで、本当に必要な改正なら国会議員の3分の2であっても成立するはずであり、その説得プロセスを軽くすることは政治家の手抜きを許すことに他ならない。
振り返れば史上最悪などと言われた震災時の某K首相などもこの憲法下で生まれてしまい、なかなか引きずり下ろすことも出来なかったが、逆にルールのお蔭である程度の暴走も防いだ面もあったのかという気がしており、憲法が有効に働いたのだと感じている。
故に現在目の前にいる政治家が何となく期待できそうだからと、その人の言葉に乗せられて足かせのルールを緩めてしまうと、例えその人の時代は良くても、今後万が一とんでも無い人が権力者になった場合に後悔することがきっとあるだろうと思われる。
法律より人が権限を握っているどこかの国の例を見れば、憲法の意味を軽くすると
いう事は、そういった国に近づくのかという危惧を感じるのである。
もし本当に優秀な政治家なら与えられた条件の中で結果を出せるはずで、どうも権力志向者ほど足かせを嫌い、能力不足をルール改正で補うべく憲法を変えたがるという気がしてならない。