先週からリオオリンピックが始まっているが個人的にはあまり盛り上がっていない。
まあおおまかな結果程度は、YAHOOのニュースでどんどん報じられるのでそれなりには知っているのだが、どうもそこまで熱くなってはいない。
寧ろ日本のプロ野球のファイターズの勝敗の方に一喜一憂しているような状態で、オリンピックにはあまり熱くなっていないのだ。
その一番大きな理由として、テレビ放送を見ていないことが大きい。
元より日本のテレビを見られるような契約をしていないのだが、中国の放送すら見ていないのである。
それ故に開会式の中継や映像も全く見てないし、その後の競技もほとんど見てない。
またブラジルとの時差が(中国と)11時間もあるのも大きい。
殆どの競技は深夜から朝方にかけて行われるので、とても起きていられないのである。
それ故に朝起きて、ネットで結果だけをざっと確認するだけのオリンピック観戦となってしまっている。
さて、そんな中で今回のオリンピックでは、日本代表とされる選手たちの質が過去に比べかなり変化していることに気がつく。
それは何かといえば、選手のボーダレス化である。
今回の代表選手でやたらカタカナの名前のついた選手、つまり外国人とのハーフや外国人アスリートの活躍が目立つのである。
昨年のラグビーのワールドカップの時にも既にその兆候は現れており、日本代表と言いながら、リーチマイケル選手とかヘスケス選手とか外国出身の選手やハーフの選手で溢れていたが、今回のオリンピックではさらにその状況が深くなった感がある。
まずはつい先日柔道90キロ級で金メダルを取ったベイカー茉秋選手で彼はアメリカ人とのハーフである。
そしてテニスのダニエル太郎選手で彼も国籍は日本だがやはりアメリカ人とのハーフである。
さらに現時点で快進撃となっている7人制男子ラグビーもフィジー人2人、ニュージーランド人1人が参加している。
また陸上男子100mのケンブリッジ飛鳥選手と400mのウォルシュジュリアン選手はやはりジャマイカとのハーフであるが日本国籍の日本代表選手である。
いずれも、日本の学校への留学や両親の血筋の関係で日本代表になったわけであるが、まぁ保守的な古い意識で見てしまえば彼らを日本代表としてしまうことには少々違和感があるだろう。
しかし、世の中のグローバル化が進むに従って、徐々にかのように人種のボーダレス化が進んでいるのが現実である。
オリンピック以外でもプロ野球のダルビッシュ有投手のようなハーフアスリートの台頭や、ローラやベッキーといった芸能界のハーフタレント活躍がかなり目立って増えてきている。
こういった時代になってくると、恐らく「オリンピック日本代表」というのは、徐々に日本国籍を有する人の代表ということでしか意味を持たなくなってくることになり、個人の国家への帰属意識とは必ずしも一致しなくなる。
つまりスポーツ界における国家の存在の有形無実化である。
先日、今回のオリンピック開催前の日本代表壮行会において、東京オリンピック組織委員会の森喜朗会長が「君が代歌えない選手は日本代表ではない」といった趣旨の発言をしたことが論議を呼んでいたが、こういった代表選手のボーダレス化を見る限りにおいては、どうも時代錯誤ナンセンスな発言のように映った。
そもそもオリンピックの代表選手に国家の名誉を負わせられるほど、国家は選手を育てているのかという疑問が湧く。
オリンピックに参加する選手の殆どは、個人でスポンサーを得たり、企業が育てたりしているわけで、国家が費用を出してアスリートを養成しているわけじゃない。
しかも最終的にオリンピックへ派遣する段階でもその多くはIOCを通じてスポンサーが費用を出しており、国は僅かばかりの補助金を出しているに過ぎない。
にも関わらず、オリンピック代表選手に日本国家代表の命を追わせるのは少々虫がよすぎると思うのである。
そして、選手の質と育成状況がこういった時代になってくると、表彰式での国旗掲揚や国歌の演奏も少々白々しい印象にも映ってくる。
選手がこのようにボーダレス化をし、選手育成が国家の命題ではなくなっているこの時代に、オリンピックにおいて表彰式で国旗と国歌というのはどうも陳腐な印象なのである。
本来オリンピックとは「個人種目または団体種目での選手間の競争であり、 国家間の競争ではない。」とオリンピック憲章に定められている。
つまり国家は選手取りまとめの役割を担っているに過ぎず、この意味から言えばオリンピック本大会で国旗や国歌を表に出して表彰することが果たして適切なのかという疑問が湧くのである。
日本のアスリートのボーダレス化やロシアの国家ぐるみドーピング疑惑を受け、そろそろオリンピックの表彰式での国旗の掲揚や国歌の演奏を止めてもいいのではないか、そんな感想を持つようになった今回のリオデジャネイロオリンピックである。