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ハルビン交響楽団と朝比奈隆さん

長春春宜賓館(旧新京ヤマトホテル)

 先日、朝比奈隆さんの件についてブログを書いて上海交響楽団のホールをデザインした 磯崎新さんのことに触れたら、その直後に磯崎さんの訃報が届いてしまった。
個人としては 磯崎さんと直接面識があるわけではないので私の方が勝手に親近感を感じてブログなどで触れて書かせて頂いているだけなのだが、亡くなってしまったと聞くとやはり寂しい。
 ただ建築家は亡くなっても建物は残るというのが建築家にとっても名誉でもあろうと思われ、上海ではこの上海交響楽団音楽庁というコンサートホールが氏の業績としてこれからも使われていくのであり、上海聴衆とともに私も大事にしていきたい。

ところで朝比奈隆さんの話に再びなるが 朝比奈さんは中国では上海の他にハルピンでもオーケストラを振っていたとウィキペディアに記載があった。
ハルビン交響楽団というオーケストラで、実は現在でも同じ名前を名乗る交響楽団がある。

 一応現地では当時(1908年)に設立されたオーケストラが現在まで中断を経て継続して残っているとの触れまわしとなっているが、実際には戦中に活動した団体はいったん解散となり、15年ほど時間が空いて新たに結成されたのが今に続くハルビン交響楽団である。
 この15年ほどの空白を経て結成されたオケが、組織やメンバー的にどれほど共通のものを持っているかは分からないが、現地では「同じオーケストラ」ということになっており、戦前のオケが再開された扱いで現在への伝統を繋いでいることになっている。
 ただ当時のハルビン交響楽団はロシア人音楽家を中心としたオケで中国人のオケではなかったようで、そこへ満州の日本人中心の新京(今の長春)音楽団と合同で演奏会を沢山行っていたとのこと。

 この演奏会に日本から呼ばれたのが朝比奈さんで終戦間際の半年ほどの期間、これらの演奏会を指揮していたようだ。
 この当時のハルビン交響楽団は日本の終戦とともに解散となったようだが、朝比奈さんのハルビン滞在は日本の終戦後も続き、国民党政府の要請で半年ほど中国人たちのアンサンブルを指導していたようで、恐らくこの時期のメンバーがその後のハルビン交響楽団の再結成と繋がりがあるのかと推測する。

 朝比奈さんはトータル1年以上のハルビン滞在の間、いわゆる満鉄が設置したヤマトホテルに滞在していたとのこと。
 私も満州時代のヤマトホテルには非常に興味があって、瀋陽と長春のホテルには泊まったのだが、残念ながらハルビンを訪れた時は、細かい事情は覚えてないがヤマトホテルは予約ができず泊まれなかった記憶がある。

遼寧賓館(旧奉天ヤマトホテル)

 その現在ハルピン交響楽団の本拠地となっているハルビン音楽庁というコンサートホールの建物は、やはり磯崎新さんのオフィスが設計に加わっている。
写真でしか見たことがないが、客席外周部の壁がガラス構造の外光を取り入れられるような構造のワインヤード形式の美しいホールである。
以前から非常に気になっておりできれば中国にいるうちに一度は訪れてみたいと思っているコンサートホールの一つである。

 まあ私の願望はともかく、ハルビンにも上海同様に磯崎さんと朝比奈さんの時間を隔てた繋がりが存在することになる。
 そういえば私が瀋陽で泊まったホテルには小澤征爾さんが宿泊した際の写真が飾られており、小澤征爾さん自体が瀋陽(当時の奉天)の出身であったことを思い出した。
 こうやって考えてみると、日本の音楽界のレジェンドたちは実は中国と結構深い関わりを持っており、様々な形で中国に縁を持っていることに気づかされる。
 そして現代の中国人たちはその足跡の延長線上で音楽活動を行っているわけであり、日本との戦争が導いた歴史の縁の末端が今の中国には残っているようである。

上海ワルツ:
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