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落語はお笑いじゃない

 最近、立川志の輔さんの落語にはまっているのだが、そんな彼の噺のマクラで興味深い言葉があった。

 それは落語をお笑いに分類するというのはどうも違うというのである。

 彼が言うには、確かに落語の噺の中にはふんだんに笑いの要素が含まれているが、それは噺のアクセントをつけるために取り入れているのであって、決して笑わせるためだけに噺をしているわけではないというような言い方をしていた。
 言われて見ればその通りであり、落語の噺の中には人情話あり艶話ありで、全てお笑いだけの要素で話が構成されている訳ではないのである。
 英語では落語がcomic storyと訳されることもあるようだが、これも落語をお笑いと決めつけた翻訳であり、本質を見ない誤訳と言ってもいいのかもしれない。
 
 もちろん噺家によっては爆笑王と言われた橘家円蔵師匠や桂文珍師匠のようにひたすら笑えるネタを提供する噺家もいるが、名人芸と言われる噺家を名人足らしめる要素は実は笑わせる能力ではないのである。(上記の2名も素晴らしい噺家で私は好きだが)

 幾つもの人物像を1人で語り分け、あたかもそこに複数の人がいるかのように話を進め、聞き手を惹きつける能力こそ落語家の真骨頂であり、心に残る物を聴き手に与えられる芸こそ高い技術を持つ噺家であろうという気がする。

 ちなみに世の中には「1人芝居」と言うジャンルもあるが、1人芝居は基本的に1人が1人を演じるのであって、複数人芝居の延長と言ってよく、もちろんそれはそれで技術的には難しいものが有るが、1人が同時に複数の人を演じる落語とは技術的には一線を画すものであろうという気がする。

 先日YOUTUBEで早くに亡くなった古今亭志ん朝さんの「芝浜」を見たが、夫婦の掛け合いを演じ分け、夫の話をきちんと遮って妻が言葉を入れるさまなどはごく自然であり、本人は当たり前のように流暢にやっているが、自らが演じることを考えれば自分で演じている1人と別の1人が掛けあうというのはとても技術的には難しい芸だという気がするのである。

 さらに、一流の役者の如く、登場人物の気持ちを心の底から訴えるさまを演じる姿は、涙を誘われるし、それを一人で使い分けるのは並大抵のことではできないだろう。

 少し話はそれるが、クラシックの有名な作曲家バッハの代表的な曲に無伴奏チェロ組曲という有名な曲があり、文字通りこの曲はチェロがソロで主旋律と伴奏旋律を1台で演奏する物となっているのだが、聴いているほうとしては楽器1台で演奏しているものとは思えない広がりをもつものとなっている。

 落語家の噺もこの無伴奏チェロ組曲の如く、複数の要素を一人で使い分け流暢に表現している訳で、両方とも同様に高度な技術のなせる業だという気がするし、本当にいい芸に接した時は笑いだけでなく涙も誘われる。
 そういった意味で、確かに落語には笑う要素が多分にあるが、単にノリだけで笑いをとっている「お笑い」に分類されることは志の輔さんの言うとおりどこか違う気がするというのはもっともだという気がするのである。

 やはり落語は「話芸」なのであり、先日柳家小三治師匠が人間国宝となったように講談や歌舞伎のような文化的な「芸能」として考えるべきなのであろう。

上海ワルツ:
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