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平等ではない人の死

 御嶽山の噴火から半月以上経った今でも、未だ捜索が続いており、それに合わせて連日報道も続いている。

 上海にいるので日本のテレビのワイドショーの様子は分からないが、少なくともYAHOOなどに上がってくるマスコミ報道では、死亡者について事細かく報道され、やれ新婚だった、やれいい人だったと根掘り葉掘り調べた報道が伝えられている。
 テキストソースがこんな状態なのだから、テレビとてあまり違わないと察する。

 まあ噴火の危険性の雰囲気を感じなかったとされる山頂で、突然発生した噴火によって、50人以上もの多くの死者が出たというニュースが、悲劇的でショッキングだというのは理解できる。

 しかし、こういった報道に関して人の死の扱われ方は平等ではないとも感じる。

 例えば、昨日日本列島を襲ったとされる台風によって全国で2人の死亡者が出たとされる。
 死亡した2人がどこでどう亡くなったのかは、詳しくは調べてないので分からないが、恐らく詳しく調べなければ分からない程に、報道はされていないだろうという気がする。

 しかも事故当時の状況くらいまでは報道されるかもしれないが、さすがにその人が普段どういう生活をしており、その死がどう悲劇的であったのかなどのストーリーまでは報道されまいと思う。

 まあ、悲劇的なストーリーとして報道することが決していいことだとも思わないが、一方の死は悲劇のストーリーの主人公として扱われ、一方の死はほぼ無名に近い人の水難事故として人数カウント程度にしか扱われない。

 こういう状況を見ると同じ自然災害で亡くなったにも関わらず、あまりにも世間の人の死への扱いは不平等と感じる。

 しかも、御嶽山の事故のあと、地元の観光PRへ不謹慎だとのクレームがつけられたりしているらしいが、そのクレームをつけた人は昨日台風の死亡者のいた地域に関して、同様に観光PRは不謹慎だとクレームをつけるのだろうか?

 今回の御嶽山の事故は確かに悲劇的な事故であったことには違いはないが、世間の人が感じている悲しみのような雰囲気は、実はテレビドラマを見るのと同じ感覚で感情的な報道に流されているだけで、本当の人の死の悲しみを理解しているわけじゃないのではないかと感じてしまう。

 人の死を悲しむなら、もっと周囲の死にも目を向けて欲しいし、それが出来ないなら自己責任である山の事故での死を、あまり特別に扱わないでほしいという気がする。

 ついでだが、自然災害の死者をよく「犠牲者」と呼び、私もかつてそれとなく使ってきてしまっているかもしれないが、自己責任である自然災害との対峙において、誰かの過失や誤りで死んだのでなければ、何かの犠牲になったというような表現も実は適当ではないのではないかという気がしてきている。

 不可抗力の事故だったかもしれないが、戦争のように人が起こした過ちではないので、噴火での死は犠牲ではないのではないかという気がするのである。
 「犠牲」とは従来「いけにえ」の死という他の目的によって死んだものという意味を含んでいて、山での自然災害はそれにはあたらないと思う。

 冷たい言い方かも知れないが、亡くなってしまった人に対しては、生きている立場からは故人の冥福を祈ることしか出来ず、それ以上にもそれ以下にも扱えないのである。

上海ワルツ:
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