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iPadはなくてもいいなと思った

遅ればせながら、ある場所でちょっとだけiPadをいじらせてもらった。
そこで感じたのは、確かに性能のよさは感じるが、これは情報を受信するだけの人の道具だなとということ。

 まあこれ一台で音楽も聴けるし、映像も見れるし、メールも送れるのは便利であると思う。

 つまり、誰かが作った情報を受け取ったり探したりするにはそれなりに使えそうだが、私のように情報を受け取るより発信するほうが多い場合にはこれではちょっと操作性が悪過ぎる。

 タッチパッド画面ではとても細かい作業に向かず、変にオート化されているためちょっと油断をすると意図しない動き方をしてしまう。
 もちろん使いなれていないという理由も大きいが、私にとってはあの画面は操作性が良いとは言いがたい。

 音楽を聴くとか、そういった受動的な情報の流れがほとんどの場合はあれで問題ないと思うが、それとてポータブルで音楽を聴いたり映像を見たりすること自体に環境には限界があるし、最近は私自身が外出中にヘッドフォンで音楽を聴くという行為自体を最近あまり好んでいない。

 今の私にとってはヘッドフォンを外し、耳に入ってくる情報のほうが余程情報量が多いように感じるし、頭に刺激的なのだ。

 つまりそれらの情報をシャットダウンして自分の殻に閉じこもってしまって時間を過ごすという状態がとても勿体無いように感じ、故に音楽を聴いて自分の殻に閉じこもるのは家にいるときか、気分が落ち込んでいるときくらいのものになってしまっている。

 まあ、そうやって考えるとあそこまで大きいものを持ち歩いて、外部で情報を拾うという行為は特に必要なく、まあせいぜいスマートフォンがあれば十分かなと思うし、発信を考えた場合は、作業をするのにノートパソコン以上のものが必ず必要になる。

写真はイメージ

 最近、ある組織で全員にiPadを配るといった行為をよく耳にするようになったが、あれは教科書や参考書を配る行為とあまり変わりなく、つまり「情報の受信者となれ!」という意図がそこに見え隠れする。

 世の中にiPadが流行って増えるのは個人的にはどうでもいいことだが、「情報の受信者となれ!」と価値観を押し付けられるのは嫌なことかなと感じてしまう。
 まあiPadが流行するということは、いかに個人がメールの送受信程度しか情報発信を必要しない社会になり、いかに情報の受信専門で生きる人間が増えてしまったかという証拠でもあると思う。

 前々から感じていたことではあるが、いろいろあれこれ工夫をして新しいことを考えたい私にとってiPadは中途半端で使い勝手が悪く、別になくてもいいものであるなと確証したのが今回のiPadの感想である。

上海ワルツ:
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