先日のイギリスでのEU離脱に対する住民投票の結果を受けて、日本の橋下徹元大阪市長が、実際に「日本に外国人が大量にやって来たら耐えれるか?」といった趣旨の発言をツイッター上で発信し、論議を巻き起こしている。
彼の発言の趣旨はEU離脱の投票結果は感情的な非合理な判断だと決めつけている人々を非難するものであり、まあ言っている内容の趣旨は理解できないものではない。
ただ私なんかは、もう中国に10年もいるので、自分とは違う生活習慣の人々のいる中での生活には慣れきってしまっているので、恐らくは難民が街に入り込んでもさして気にはならないと思う。
しかし、日本から出たことのない人々にとっては、知らない人々を外国から受け入れるのは、かなり苦痛なことということは理解できる。
そういった意味で、橋下氏の発言は理解できないものではない。
もっとも、橋下氏自身は直前まで難民受け入れ論を展開しており、世界に貢献するために日本も難民を積極的に受け入れるべきだと言った発言を何度かしている。
つまり今回はEU離脱の結果を非難している人々を非難しているだけで、難民受け入れを否定するという意見では無いように見受けられる。
ただ何れの意見であっても私からすると、ある一つの視点が欠けているように映るのである。
それは、日本人が難民となる可能性についてである。
「日本人が難民?何を馬鹿なこと言っているんだ」と言われれるかも知れない。
確かに、今難民が大量発生しているシリアなどに比べたら、日本は遥かに豊かで政情もそれなりに安定した状態であるわけで、良くも悪くも日本人自身が難民に転落するような状況は想像できない。
じゃあ、本当に日本人が難民となる可能性はないのか?
この問題を突き詰めていくと、実はもう日本人にも難民となっている人がいるのではないかという思いに至ることになる。
その一つが震災による避難民の存在である。
例えば先日の熊本の震災では家を失った人などがピーク時には18万人、震災から3か月近くたっても5千人近くが避難所で暮らしいるとの報道であり、彼らは土地こそ追われていないが、十分に難民の定義に当てはまるのではないか。
さらに5年前の東日本大震災では最大45万人もの避難が発生し、家に戻れていないと言う意味で言えば、福島の原発事故の影響で現時点でも11万人が避難生活を送り、東北全体でも22万人の人々が避難生活を送っている状況となっている。
彼らは、日本政府や自治体の手が差し伸べられているとはいえ、自然災害(原発事故は人災の色が濃いが)によって難民となった人々であり、日本国内の難民といえる。
まあこれらの災害では、今のところ日本の国内だけの相互扶助によって何とか難民の国外流出のような事態にならずに済んでいるが、今後も国内で災害難民が発生した場合に、難民の国外脱出が必要な事態が起きないという保証はない。
その一つのリスクとして考えられれるのが、以前から懸念されている南海トラフの大地震三連発であり、それに伴う原発事故の誘発発生である。
南海トラフ地震に関して言えば、過去の発生例から言って、起きるとすると3つの大きな地震が太平洋沿いで立て続けに起きる可能性があるという。
政府の試算によると、南海トラフで巨大地震が発生すれば死者32万避難者500万が発生するなど言われており、果たして日本国内だけで援助の手が回るのかどうかわからない程の甚大なものとなると言われている。
さらに福島同様の原発事故が発生してしまえば、少なくとも各原発の周囲100キロ圏程度は人が立ち入れなくなるわけで、避難民はさらに増加するだろう。
すると、災害難民となった人々が日本国内で収まり切らず、海外へ新天地を求めて移住するなどと言うことも震災発生時にはあり得るのであって、まさに我々日本人が難民となるのである。
このような際に、もし今のように難民拒否政策を取り続けていれば、「あなた達は過去に難民を拒否して続けてきたから、我々も日本人を受け入れない」ということも十分有り得る話となるのである。
こうやって考えていくと、上記の橋下発言の受け入れ論・離脱支持論のいずれも同じなのだが、豊かな立場の我々が難民の受け入れに対してあたかも自由な選択権を持っている有利な立場かのような言葉に聞こえ、「明日は我が身」という相手の立場に立った意識を忘れているかの如く映るのである。
また我々日本人全体の中に、難民と相対的に豊かな立場であることに疑いを持たず我々が難民にはなるはずがないという傲慢な意識を感じてしまうのである。
本来、難民を受け入れるとかそういった人道的支援というのは、国際貢献とかそんな耳あたりのいい立場の言葉ではなく、「明日は我が身」という意識を持った「お互いさまの精神」で行われるべきであろう。
どうも日本人は豊かになりすぎたのか、難民に対峙しても「明日は我が身かもしれない」という意識をすぐ忘れるようである。