私はかつてほんのちょっとしか人形浄瑠璃を見たことがないが、その人形とは思えない動きと表情に鳥肌が立ったことがある。
人形に表情?などと疑問に思う人もいるかもしれないが、人形浄瑠璃が表現する人の表情や感情の機微は実に奥深く、下手をすると人のそれを上回る可能性だってあるのではないかと思うこともあるくらい絶妙なのである。
手の動きや顔の上げ下げなど、人形であるがゆえにその動きの幅には限りがあるはずなのだが、それを感じさせない奥深い感情表現がそこにある。
恐らく人の舞台が同じ役でも役者によって味わいが違うように、人形師によってもその表現の個性が違い、それがそのまま表現される役どころの内面表現の違いとなって現れ、その違いを楽しむのが浄瑠璃のツウな楽しみ方であると思われる。
故に浄瑠璃においてストーリーというは、実はその楽しみ方に於いて第一義的に重要なものではなく、あの噺家だから寄席に行く、あるいはあの歌手が歌うからこのオペラを聴くといった、出し物にこだわるわけではないように、ストーリーは単に名人芸の魅力を引き出すためのツールでしかなく、ストーリーに囚われて浄瑠璃を見るのは実は何も浄瑠璃の魅力に気づいていないということになる。
先日某市長から浄瑠璃のストーリーがああだこうだというコメントがあったが、あの発言は結局ストーリーにこだわり過ぎて、人形の表現する人の心の機微を感じられなかったのかなと思うと非常に残念な発言である。
まあ本当かどうか知らないが、彼は先日の週刊誌の記事では昔不倫相手とコスプレを楽しんでいたという嗜好が描かれており、あれが本当だとすれば相手の女性の内面的な心と向き合うのはなく、単なる外観的なイメージで人と付き合っていたのかと思わせられ、そういう外面でしか人を捉えられないというのではないかという人の本質が見える。
つまり、そういった彼のものの捉え方の本質が今回浄瑠璃への感想にも表れたということになる。
そういえば、入れ墨だのタバコだの外面的な規制には厳しいが、人を人として捉える話はこの人からあまり聞いたことがない気がする。
さて、当の地元で浄瑠璃について補助金の問題が取り上げられているが、まあ支える意思がないところに無理強いするのも馬鹿馬鹿しいので、例えばJALなど去年大きな利益を上げた企業にスポンサーになってもらい、日本の文化の国際PRのシンボルとして担ぎあげてもらうなどの別の生き残り策をさぐるのはどうだろうかと思う。
目先のほんのちょっとのお金の問題であの浄瑠璃の名人芸が衰退してしまうのは実に惜しい話だと思う。