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そもそも論点がずれているビデオ問題

 日本では尖閣諸島沖の漁船衝突事故のビデオ映像がインターネットに流出して上へ下への大騒ぎになっているが、一部ではこれを証拠に国際的な強硬論を推す声が強まっていると伝わっている。

 しかし、私からすればあのビデオ1本で状況が変わるものでもないのに、流出させた側もコントロールできなかった側もそこにこだわっても仕方ないという気がする。

 この事件はよくよく状況を分析してみると、実は日中間では論点がずれていて議論が全く噛み合っていないことに気づく。

日本側はあのビデオを証拠に、衝突の責任は漁船にあると主張したいようだが、そもそも中国側の主張はあの海域は中国の領海内であるという前提から始まっている。
 中国領海であるから日本の警察権力を行使するのはおかしいという主張である。
 この時点で既に中国側では漁船と巡視船がどちらがどうぶつかったかどうかなどという議論はある意味どうでも良くなっているのである。
 そこを忘れて、今回のあのビデオを振りかざして細かい責任論を追求したところで、中国側は領海問題を主張するので結局議論にはならない。

中国での交通事故を目撃したことのある人ならお分かりだと思うが、明らかに危険な運転をしている自転車が、安全運転をしていた自動車に接触して倒された場合も、自転車側は「私が被害者だ」とばかりにその場に倒れて自己主張をする。

 どう見ても自転車側に非があっても自転車側は被害者を主張するのである。

 大体が喧嘩両成敗的に裁かれるが、稀に自転車側の主張が通ってしまう場合がある。

 つまり事故の解釈など立場でどうにでもなってしまうのがこの中国という国である。

 また逆に、そもそもの日本人の意識の根底には平和に慣れすぎたお陰か、「何か問題が起これば誰かが平等に裁いてくれる」という意識が心の中にあり、警察や国家など上位機関に依存する意識がどこかにある。

 正しいことを主張し裁いてもらえばそれは必ず報われるという意識である。

 これは確かに悪くない意識だが、それは国家や警察権力のような絶対的に強い機関が存在し、その中で起きた事項に限って保障されるという条件がつく。

 法律や考え方の全く違う国家間の主張のぶつかりにおいては、国連やその他の国際上位組織が、強制執行力をもって国家を指導できない限り、今回のような証拠一つばかりを振りかざしたところで、ほとんど意味を持たない。

 つまり国際間の意義主張のぶつかりは、「上」を頼るのではなく、「自ら」或いは「横のつながり」を持って対応するほか無いのである。

にも関わらず、日本と日本国民は正義の主張を「お上」に頼ろうとする。

 現在の菅直人首相が、厚労相時代には舌鋒鋭かったはずなのに、今その姿がなりを潜めているのは、実は厚労相時代は頼れる「お上」や「国民世論」の後押しがありそれに乗っかって強い主張が出来たが、首相となった現在では自らが法律となって動かねばならず、また頼れる「お上」のいない国際関係の中においては自分の正義を裁いてくれる権力がないので、力を発揮しにくく現在のように低迷しているのであると私は推測する。

つまり今の彼が情けなく見えるのは、彼が「お上を頼る意識が染み付いてしまった国民」の代表だからであるのだと思う。

 国際舞台では「国家」や「企業」という「上」を見ているだけでは何も保障されない。
 日本人のそういう「上を頼る意識」を捨てれば、今回のような事件に対してももう少しマシな対応が出来るに違いないと思うのだが、結局はビデオ1本に振り回されているのが日本の現状なのである。

上海ワルツ:
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