これを書いている時点でもう選挙当日になってしまい、いよいよ未来4年間の日本の行く末が決まる。
だからこのテーマで書こうと思ったわけでもないのだが、首相をはじめ、党首、社長、委員長、学長などなど各組織のTOPはよく責任者などと呼ばれ、何かことあれば責任を取る必要があると言われる。
しかし、この「責任を取る」って行動って果たして何だろうと時々思う。
まず思い浮かぶのが「辞める」という行為である。責任を取るのだから当然といえば当然だが、それはただ地位や収入を失ったことに過ぎず、本人にとっては社会的マイナスが生じるかも知れないが、例えばその責任者の行為によって第三者に間接的、直接的に被害を与えたとしても本人が辞めただけでは、被害者にとって何の補償があるわけでもなく、責任をとってもらったようには見えない。
しかも国の首相などの政治家であれば、政策の失敗により失業者が増えたり国の借金が増えて子孫に重い税負担が残ったりするが、本人は失策であることを認めず、視点を変えて実績であるといった言い方をする。
また会社の社長なら経営の失敗により従業員が解雇されたり株主が大損したりするが、これをその責任者が辞めたところで第三者の損失が埋まるわけではない。
まあ民間企業に関しては最近になってようやく経営者の責任について株主代表訴訟などが行われ、いい加減な経営から生まれた損失に対するきちんとした経済的補償を責任者に求めることも可能になった。
しかし社員の側にはそういった経営者の責任を追及する場は少なく経営が悪いと社長を訴えたところでほとんど補償金をもらえるわけでもない。
さらに、国の首相レベルや大臣レベルの失策に関してはもっと深刻だ。確かに失策があれば政権交代という社会的地位の格下げなどの可能性はあるが、例えば失業者が何人も増えたところで、失策と事実の因果関係をはっきり証明することができなければ、首相などを直接訴えて財産補償などを受けられる確率はほぼゼロに等しい。
特に国費の無駄なバラマキにより借金を増やしてしまったような失策は、例え首相を個人的に訴えて認められたところで、首相自身が個人的に補償出来るわけでもなく一度行われた政治に関しては覆水盆に返らずなのである。
故に国家レベルで首相や大臣が責任をとると言う意味は、実はその下にぶら下がる人々にとってはほとんど無責任といってもよく具体的な行為や補償など中身のある言葉ではないのである。
そこをよく考えてみえれば、某政党のいう責任力という言葉がいかに無責任な言葉であるかがわかるし、逆に政権交代に過度な期待や責任を期待することも禁物であることもわかる。
責任者のいう責任とは結局はかなり無責任であり、頼りきってしまうことは危険で、なんとか自ら身を守るしかないようである。