以前「中国人は拍手が上手じゃない?」というブログを書いたが、最近中国人の拍手の習慣について新しい発見をした。
それはあるイベントで司会のような役割を頼まれたときのことである。
中国語が主体のイベントだったので中国人の担当者がまず中国語の台本原稿を書いて、それに対して私が日本語訳をするという形で、準備を行なったのである。
で、相手の原稿が上がってきて、いざ翻訳をしようして台本を読んでいったときに、拍手の促し方がちょっと違うように感じたのである。
このイベントはある講演者に語ってもらう内容で、中国語の台本では本人を招き入れる時にまず拍手を促し、さらに講演者を紹介した後に話し始める直前にもう一度拍手を促す内容になっていた。
実はこの二度目の拍手を促す設定に違和感を感じたのである。
まあ欧米の慣習は知らないが、実は日本では講演者が話をする直前に拍手を促す習慣はあまりないのである。
もちろん、遠くから招いたゲストを会場に招き入れる場合は歓迎の意味で拍手を促すことは普通なのだが、スピーチや歌など何かを演じるような場合はその直前は「お願いします」「どうぞ」といった具合でタイミングを与えるだけで、敢えて拍手を会場に要求しないのである。
もちろんそのまま拍手が起きず静かに始まってしまう場合もあるが、大体は司会者と参加者の決まり事というか、あうんの呼吸で自然発生的に拍手が起きる。
つまりこのタイミングで、司会者が会場に拍手を促すのは「野暮」なのであり、極端に解釈するとあなたは自然に拍手が起きない人だと言うのと同じで講演者を馬鹿にする失礼な行為と映る面もあり、余計なお節介なのである。
ところが、中国では社会主義的集団行動の名残りなのか、この自然発生的拍手が上手ではなく、他人から促されたりタイミングを示されないと拍手が出来ないようなのである。
恐らくはかつて勝手に感動したり表現したりしてはいけない時代があったということであり、拍手は儀礼として決まったタイミングでやらなければならず、中身に感動するとかしないとかに関係なく形式的な儀礼表現として拍手が存在していたのだと思われる。
つまり階級やゲストという形式的に対して拍手を送る「儀礼」なのだと思われる。
こういった名残り故か、今回のような中国人の作る進行台本的なものを見ると、やたら拍手を促すタイミングが記され、彼らにとっていかに拍手が形式な儀礼習慣になっているかがよくわかる。
それ故に前回書いたように、拍手がコミュニケーションの手段として成立ししておらず、中国で行われるイベントが野暮ったく感じる原因となっているようである。