12月に寒さは一段と厳しさを増してきたが、日本にいたときのようなせわしさはどうも感じない。まあ上海なんぞは一年中人間がうようよしているし、中国人にとっての本当の新年は春節であるので、12月だからといって特に変わる部分もないのかもしれない。
そのせいであろうか、こちらにいる私もどうも年の瀬という意識がない。
日本のような特別なクリスマスセールの賑わいもなければ日本の風物詩ともいえる第九も、こちらのそんな季節感の中ではまったく聞こえてこない。
上海で演奏されるクラシックの演奏会のプログラムをみてもやっぱり第九は見あたらない。最近はヨーロッパでも日本の影響を受けてか年末に第九を演奏する習慣が生まれつつあるらしいのだが、いまだベートーベン全盛の中国のクラシック音楽事情においても、第九の特別の位置づけは感じられない。これは新年の時期が違うからであろうか?いや違う春節前にだって第九なんぞ聞かれやしない。
実は第九という交響曲の中身を考えてみるとその答えが見えてくる気がする。第九の全4楽章の構成は、一楽章二楽章三楽章と悩み・苦悩・回顧の過程を経て、それをつきぬけ歓喜の歌にたどり着くという構造をもった曲である。つまり苦悩、苦悶の過程を経たものにしかその歓喜は味わえないような曲なのである。
日本人は正月を迎えるために、12月にその一年の集約を求めようとする。一年を振り返り10大ニュースをつくってみたり、テレビ番組や音楽関係の授賞式も集中的に行なわれ、ボーナスや個人所得の年末調整など12月に一年のまとめがどっと集中する。それ故あの第九の最後の追い込みのようなメロディが非常によく似合う。
ところが中国では、まず過去を振り返るという習慣や意識が基本的に薄く、それ故現在が過去の積み重ねという意識もない。さらに未来へ進むための苦悩・苦悶という言葉には縁遠い気がする。中国人だって悩まないことは無いだろうが日本人が経験するそれとはどうも次元が違うようである。従って同じ新年を迎えるという状況においても、日本人は過去を整理して保存しようという意識だが、中国人は過去をきれいさっぱり捨てて新年を迎えようという意識のような気がする。
そんな発想の中国人にはどうも第九の理念はしっくりこない。そこが中国に第九が根付かない理由かもしれない。