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小三治師匠逝く

 落語家の人間国宝・柳家小三治師匠が亡くなったと報道された。
 いつかこの日が来ることは常々覚悟していたが、実際に報道を耳にするとかなりショックである。
 小三治師匠は私が中学生の時にラジオでその高座を聴き、落語を好きになるきっかけを与えてくれた噺家さんである。
 「大工調べ」での棟梁が切った啖呵が今でも忘れられない。
 それ以来30年以上ずっと彼のファンだった。
 
 生の高座を聴いたことは数度しかないが、その中で聴いた「子別れ」の母親が、厳しく子供を叱る迫力に表現の凄さに感銘を受けたことを覚えている。
中国に来てからは全く生の高座を聴くことはできなくなってしまったが、youtubeなどで常々聴いていた。

師匠の特徴は、わざとらしくない自然な語り口の江戸弁の言葉で、等身大の師匠がそのままの語り口で言葉が出てくるところである。
多くの噺家は、演じる役の役作りに懸命になるあまり、いわゆる落語言葉とされる話し方を袖丈があってない服のように不自然に話すのだが、小三治師匠にはそれがごく自然に言葉が出てくる。
「円生100選」を制作した録音エンジニアの京須さんも同じようなことを指摘していた。

それゆえに、彼の描く人物はとても自然で、どこかにあたかもいそうな人物なのである。
例えば「うどん屋」に登場する酔っ払いの喜怒哀楽は、とても愛らしく憎めない存在である。

さらに自然なのは人物だけではなく、背景描写の語り口は非常に巧妙で、背景が目の前に浮かんできそうなほどに語られる。
これは以前にも書いたが、例えば「芝浜」における海の描写や、大みそかの家の外に感じる自然の描写は他の名人にないような描写力なのであり、夜の海岸の空気や、風を感じるのである。

 そしてこういった技術的な高さが噺家としての魅力を構成しているのはもちろんなのだが、その魅力の本質は師匠本人の人間的な魅力である。

小三治師匠は「まくらの小三治」のニックネームがつくほど、古典落語の本題に入る前に話す前振りの雑談の語りが有名で、そこに飾らない人間像が伝わってくる。
「まくら」は本来落語の内容のネタに導くための伏線を張る目的で話す場合が多いのだが、小三治師匠の場合はそういった前提にとらわれず身の上話的な世間話のまくらを振るので、ますますお客と距離が近くなるのである。

 その小三治師匠が逝ってしまったため、私は自分を構成していた一部が失われたような感覚でいる。
 訃報を聞き。Youtubeで師匠の落語を改めて聴こうとも思ったが、どうも今はそんな気になれずやめてしまった。

 小三治師匠、長い間ありがとうございました、どうかゆっくりお休みください。

上海ワルツ:
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