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ダジャレは何故面白いのか

 「ダジャレは何故面白いのか?

 こんな命題に対して一生懸命に説明しようとして書かれた論文がラジオで紹介されていた。

 和歌など掛詞(かけことば)などは笑えないのに、ダジャレは何故笑えるのかなどいろいろ検証してるようだったが、番組の中ではどうもあまり納得するような結論に達しなかったようである。

 そこで私もおせっかいにもこのくだらない命題について自分なりに考えてみた。(笑)

 まあダジャレが面白いかどうかまで疑ってしまうと、話が始まらないので、一応面白いものとの前提で考えてみる。

 思いつく限りの多くのダジャレを分析してみると、ダジャレはどうやら基本的に「A+B」という文章の構造を持っているようなことに気が付いた。

 さらに分析すると、このA+Bの文は文章として成立するのにもかかわらず、AとBに意味の上で共通項が成立するので、ダジャレとして成立しおかしさを感じるという気がするのである。

 例えば「布団がふっとんだ」は「布団が」と「ふっとんだ」という言葉に分けることが出来、この「布団」と「ふっとんだ」が発音が似ているにも関わらず、「布団が吹っ飛ぶ」という言葉の意味が通じるところに面白さがあるような気がする。

 同様に「ドイツ人はどいつだ?」も言うまでもなく、「ドイツ」と「どいつ(どの人)」の音が重なっているにも関わらず、ドイツ人はどの人だという意味で言葉が成立するので、ダジャレとして扱われるのではないかと思われる。

 また少しひねったところでは「猫はここにはいみゃぁよ」などと言う文も、「猫」と「みゃあ」は同じものではないが、「みゃあ」が猫の鳴き声であることは人々の共通認識としてあるので、「猫はここにいないよ」を「いみゃあよ」と言い換えたところで一応文として成立し、ダジャレとして成立するのではないかと分析してみた。

 そしてこのこじつけが強引なものが親父ギャグとして馬鹿にされていると整理される気がするのである。

 さて、こうやってダジャレを分析したところで、この法則で中国語でダジャレを作ってみようと考えたが、実はこれが中々難しい。

 とりあえず、「快給我一塊!」(早く一元くれ)

と言う言葉を作ってみたが、音は重なるもののどうも面白いものになってくれない。
音は重なり文として成立するのにあまり笑えないのである。

 どうして日本語はあんなにダジャレが作りやすいのに中国語は難しいのか?

 まあそれを考えて日本語と中国語をいろいろ比べてみたが、どうやら中国語がどうのこうのというより日本語が特殊であるのだというような気がしてきたのである。

 例えば一般的に日本語のダジャレの作りやすさの理由の一つに音素の数の少なさが挙げられ、さらに音訓読みなど同じ漢字に対して複数の読み方が存在することが挙げられる。

 さらにそこへ英語を代表とする多くの外来語なども混在しており、これらにより一つの意味に対して非常に多くの異音語、或いは一つの発音に対して非常に多くの異義語が発生しやすいという日本語独特の言語環境が生まれている。

 このような言語環境の中では、文として成立させながらも音や意味で共通項を持った言葉を探しやすく、ダジャレを成立させやすいのである。

 これに対して中国語も同音異義語や同義異音語もそれなりにあるが、日本語程こじつけやすい物ではなく、掛詞程度の物までは成立するがダジャレとして笑えるようなものにはなりにくいような気がする。

 或いは中国語は同義語の中で言葉の選択肢が少なく、シンプルな言語である面もあるのかもしれない。

 まあ、もっと中国語を極めれば中国語でも面白いダジャレが言えるようになるかもしれないが、まだまだ時間がかかりそうである。

上海ワルツ:
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