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第九の第3楽章の味わい

 日本では年末師走の風物詩として当たり前すぎるほどにその名が知れ渡っている「ベートーベンの第九」だが、ここ上海でも徐々に演奏回数が増えてきているような印象である。

 10年前に第九の習慣のない中国で書いた通り、そもそも中国では第九の演奏は少なかったが、今年は暮れの音楽界のプログラムの中にちらほらと第九の名前が散見されるようになってきた。

私も昨年はその流れに乗って、先日の大みそかに第九を聴いて一年を締めた。(楽章ごとに拍手が起きる聴衆環境だったが・・・)

第九コンサートの看板

 と思っていたら、今度は今週の土曜日に日本人奏者や合唱団が大勢参加する「第九」が開催されるようで、私も慌ててチケットを手に入れた。

まあ彼らはオケも合唱もアマチュアの寄せ集め所帯なのだが、第九が浸透している日本人が大半を占めるようなので、そこそこの演奏にはなるのではないかと期待している。

 ところで、第九と言えば合唱を伴う第4楽章が圧倒的に有名だが、交響曲であるからには第1楽章から第3楽章までもきちんと存在し、音楽の作曲理念から言えば、開始から終わりに向かって一つの流れがあって、繋がっていることに意味があるのであり、第4楽章だけ聴けばいいというものではない。

 この 第九の各楽章のイメージは「チェリビダッケの第九」でも書いたが私は下記のようなイメージで捉えている。(前回より若干修正)

 第1楽章は、恐る恐る勇気を持って踏み出し壁にぶつかりながら開拓する精神

 第2楽章は、試行錯誤の中、大きな夢への希望の道筋を感じつつ進む喜びと苦労の時間

 第3楽章は、ふと立ち止まり、迷いの中、自分の内面と向き合い思慮にふける時間。

 第4楽章は、迷いが消えて夢の実現にまっすぐ進み希望の喜びがふつふつとわきあがる。
そして苦労を共にした仲間と喜びの宴、最後はどんちゃん騒ぎへ 。

 このうち第3楽章のアダージョは、実に優しい曲である。

 人によっては怠惰な冗長な楽章と評価する向きもあるようだが、第3楽章は第1第2楽章で力が入っていた状態から、ふっと肩の力を抜いて、自分の歩んできた道や自分自身の内面を迷いながらゆっくりと顧みる時間を与えてくれる音楽である。

 苦しかった時間や迷っていた時間などを思い出しつつ、あれこれや考えていくうちに、心の迷いが整理されて行き、徐々に心が一つの方向へ集約されていく効果がある。

 そして心の迷いが消えた状態で第3楽章が終わり、第4楽章で心身ともに力強く再度立ち上がり再び前へ動き始める音楽となり、いわゆる「心が決まった状態 」 になる。

このように第3楽章は心の浄化作用ともいうべき優しさがあり、メロディに心と身を預けることによって、心の迷いや苦しさを音楽が優しく慰めじっくりと自分の日常やそれまでの時間を思い出させてくれるのである。

 そしてこういった自分への振り返りがあって、初めて「心が決まって」第4楽章の喜びの爆発に繋がる。

 逆に第1第2楽章での苦悩があってこそ、第3楽章の振り返りが意味を持つ面もあって、いきなり前提(第1第2楽章)もなしに、振り返りの時間を持っても何も出て来ないのである。

この第九の第3楽章は、後にアダージョの大家(たいか)と評されるブルックナーが参考にしたとされるほど、深い隠れた名曲であり、第九に足を運ばれる方は合唱楽章の前の退屈な時間などと思わずにじっくりと心を預けて聴いてほしいと思っている。

上海ワルツ:
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