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2011年07月19日 なでしこの勝因はケアの差?
 W杯でアジアで初めて優勝したなでしこJAPAN、誰も語ってないので自分で書くが、今回の試合中継を見ていて印象に残った対称的なシーンがあった。

 それは、90分のゲームを終えて延長戦に入るまでの両チームの時間のすごし方である。

 アメリカチームはなかなか打破できない苛立ちの表れなのか、監督が一生懸命に日本の壁を突き破るための作戦を話していた。その間アメリカチームの選手たちは立って一生懸命に話を聞き入っていた。

 それに対して日本チームはピッチに立っていた全員が足のマッサージなど体のケアにまわっていたのである。90分の疲れを可能な限りとり、延長戦の30分間に備えていたのである。

 結局その休憩の間、アメリカチームは全くといっていいほどボディケアをやらずにすごし、逆になでしこはほとんどコンディションケアのためだけに時間を使った。

 つまり片方は作戦会議で時間を過ごし、片方はコンディション作りに時間を使ったのである。
 
 アメリカチームは体の大きな選手が多かったので頑丈なアメ車のごとくあと30分くらいのゲームのコンディションには自信があったのかもしれない。

 日本は体が小さい分元々ボディケアには非常に気を使っていたのかもしれないまたもうあの時点まできたら、なでしこたちにとって作戦どうこうが問題ではなかったのかもしれないし、自分たちのサッカーを最後までやりきすれば必ず勝てる、そう信じていたからこそ作戦ではなく、コンディションを優先したのかもしれない。

 お互いどんな理屈の元でそう過ごしていたのかは実際に訊いてみないとわからないところではあるが、とにかくこれを見ていたとき、私はなんとなくなでしこたちの勝利を確信した感がある。

 そして延長戦が始まった。

 私の見立てが正しければ、前半を無失点で乗り切れば後半にチャンスが来る、そう見ていた。
 
 そして私の予感はあたりつつあった。アメリカチームのパワーやスピードは確かに相変わらずの感があったが、既に延長前半からパスやキックの精度が落ち始め、ミスが目立ち始めていた。

 まあ延長前半終了間際に点をとられてしまったときはさすがに計算が狂ったなと思ったがそれでも焦りは感じなかった。

 あと15分もあるじゃないか、時間がなくなるまでチャンスはいくらでもあるし、相手は必ずへばってくる、そして同点にすればこちらのもんだ、そう思って見ていたのである。

 そして終了間際に沢選手の同点ゴール。

 私はここでまだ同点なのに不思議と勝利を確信した。

 同点とあればPK戦で、おそらくアメリカチームの選手にPKのキックを確実に蹴る精度は残っていないだろうと感じていたからである。同点にされた精神的ショックも小さくないはずである。


 そして案の定、PK戦が始まると、アメリカの選手のPKは精度を欠き3連続で入らなかった。

 PKを止めた海堀選手の功労の価値を下げるつもりはないが、延長前に体のケアを怠ったあの休憩時間のすごし方があのミスキックや海堀選手にコースを防がれるキックに繋がったような気がするのである。

 そしてなでしこの勝利。

あの休憩時間の過ごし方、つまりケアの差が今回の明暗を分けた、私はそう思っている。

 
とにかくおめでとう、なでしこJAPAN!

 
 


2011年07月18日 日本の被災者のために車を売ったドイツ人の話
 今回のなでしこJAPANの記事を追いかけていたらこんな記事に出くわした。
 毎日新聞社のサイトに出ていた話だが、日本の大震災のあと救助ボランティアとして日本へ駆けつけたドイツの人の話である。

 アンドレアス・タイヒャートさんというドイツの元消防団員の方で、3月の震災直後に日本にやってきたが、被災地で見た泥の中の木の人形を一心不乱にふく老人の光景が忘れられず、自分ボランティア資金が底をついたにもかかわらず「全てを失った人を見た後、私の車なんか何の価値があるのか考え込んでしまった」と自分の車を売って資金を得て、再度5月に日本へやってきて被災地支援活動をやったという。

 そして今回のなでしこJAPANの活躍にさらに背中を押され、スポンサーを探してまで三度日本を訪れ、被災地支援活動に奔走し、恐らく今回の優勝シーンも日本で見たであろうとのことだ。

 このようなタイヒャートさんの人道的な行動力には敬服するばかりであり、日本人としてこの行動に感謝するのと同時に、外国人にこれだけのことをやらせておいて、被災者と同じ日本人である自分の行動がまだまだ中途半端であることを実感した。

 まあ私はお金の面では売るような車もないので気持ちばかりの義捐金を出すのが精一杯だが、全てを失った人のことを思えば、まだまだ自分にはやれることがあるんじゃないかと考えてしまう。

 そして今回のなでしこJAPANの優勝についても、一番苦しいであろうと思われたドイツ戦の前に震災のビデオを見せられたという記事を読んだ。
 この件が選手たちに、背中の後ろにいる人たちを感じさせる強烈なメッセージとして伝わり、どんなに苦しくても投げだせない気持ちの強さが生まれ、今回の驚異的な粘りを生んだのだと言われている。
 今回なでしこたちが優勝できたということは恐らく日本が負った傷がそれだけ深く癒えていないということの裏返しであるように思う。

 そう、まだ震災は終わっていないし、過去にもなっていない。そのことを忘れそうになっている自分をこの記事は気づかせてくれた。

 自分にできる行動を改めて考えたい。

毎日JPの記事
http://mainichi.jp/select/world/news/20110715k0000m030063000c.html



2011年07月16日 量販店専用提供の意味
 最近、飲料水や常用するスポーツドリンクなどはどうせ飲むなら安く買おうと、近所のスーパーでまとめ買いをして、1本あたりのコストを抑えるようにしている。
最近、これらのドリンクのペットボトルのパッケージをみて気がついたことある。

 それはこの量販店で売られているミネラルウォーターには「量販専供」、つまり量販店専用提供という記載がしてあるということである。
 コンビニなどで売っている商品には無い記載である。

 何故、わざわざコストをかけて差別化する?

 最初に考えたのは品質が違うのではないかという疑いである。
 量販店販売の商品は値段が安いので、実は品質の面でも他のコンビニなどに卸してある商品とは差をつけて、品質を落としてあるのではないかという疑いである。

 しかし、これについては品質検査をしたわけではないので、実証は出来ていないものの飲んでいる分には差は感じない。しかもまあ普通に考えればメーカー側がそんな疑われそうな分かりやすい表示をするわけが無い。
 故にどうもこの説は正しくなさそうということになる。

 では「量販専供」の表示をするか?

最近自分が得た一つの結論が、実は万引き対策ではないかということである。
 
上海で暮らしていると、基本的に湿度が高く暑いので、飲料水などを鞄の中にしまって持ち歩く機会も多くなる。そしてそのままスーパーに入って行くことも決して少なくない。
 しかしスーパーの中には当然同じ商品が売られているので、買い物中に迂闊に鞄の中の飲料水を取り出して飲んだりすると、万引きを疑われたりすることがある。もちろんそれは外から持ち込んだものであれば本来は犯罪にはならないが、なかなかその証明は難しい。
 またそれを逆手にとって、売り場で売られている商品を勝手に開けて飲んでおいて持ち込んだ物だと言い張る人も中国では少なくないだろう。
 
 そこで、それを防ぐためのこの商品のパッケージの差別化である。
スーパーの中で売られている商品が「量販専供」の記載で差別化されれば、少なくともその場で盗んだ商品を、コンビニで買って外から持ち込んだものと言い張ることは難しくなる。
 もちろん他の量販店でも「量販専供」印の商品は売られるはずだから、100%の予防策にはならないかも知れないが、少なくとも一定の予防線にはなるであろう。

 これらは今のところ私の推測に過ぎないが、こう考えると非常に腑に落ちる。

 それにしても私の推論が正しければ、こんなパッケージ差別をしなければならないほど万引き被害が大きかったということになろうか?

 まあこの対策でどの程度の万引き予防が出来ているかわからないが、これでも防ぎきれなければ中国でも既に製造ロットナンバー管理はされているようだから、厳格に流通トレサビリティ管理をして「これはうちの店に納入された商品で、他店に納入されたものではなく、まだ会計が済んでないものです。」とはっきり情報を突きつけるようにするしかないかもしれない。


2011年05月06日 子供の休み時間 大人の休み時間
 最近、とある小学校の休み時間の様子を見ていて気がついたことがある。
それは、子供は休み時間になると外へ出て思いっきり遊ぶということである。

たった10分程度の休み時間であるにも関わらず目一杯遊ぶ。
ドッジボールや縄跳びなど内容は様々だがみな夢中になっている。

そして休み時間終了のチャイムが鳴ると潮が引くようにあっという間に教室に戻る。
この様子は日中で違いが無いようだ。

ところが大人の休み時間はどうであろう?
何の合間の休み時間かにもよるが、10分程度の休み時間であれば、グデッと休んでいる人がほとんどである。

 タバコをプカプカ吹かす人もいる。

 たまにキャッチボールをしている人なども見かけるが、割合的には非常に少ない。
そして10分の休み時間が終わるとだらだらと仕事に戻っていく。

いつの頃から人間は休み時間を遊ばなくなるのであろうか?

中学か高校か大学か?
中学の頃から下駄箱が遠く感じるようになった気がする。
体は大きくなったのに。。。

とにかく子供の休み時間は遊びの時間、大人の休み時間は休む時間と昔から相場が決まっている。


2011年04月22日 雑誌「ぴあ」が休刊とは世の中変わるものだ。
 先ほど目にしたニュースで、雑誌「ぴあ」が休刊になることを知った。
90年代、演劇とコンサートに夢中だった自分は毎週のようにこの雑誌を買い込み、機会と余裕を見つけては各公演に通った。

 しかし、その情報発信手段がいつしかインターネットにとって代わられ、販売部数も伸び悩み、結局休刊となったらしい。

 まあ確かにインターネットの時代になってしまったので、情報というのはもう紙で発信する時代ではなくなったかもしれない。

 小説のように長期保存を目的とするものなら紙の利点はまだ残るが、最新情報を発信するツールとしては紙媒体よりインターネットのほうが圧倒的に有利なのは誰の眼にも確かである。

 しかし、である。
 紙ならその雑誌代だけよいが、インターネットというのはパソコンという個人資本を用意しなければならない。

 普及率の面でかなり100%近くになっているであろうパソコンや携帯のネットユーザー人口であるが、その資本を用意しなければ芝居やコンサートの情報すら容易に得られない社会に変貌するのも、これまたいかがなものかと少々の疑問を感じざるを得ない。
 昔に比べかなり安くなったとはいえ、パソコンや携帯はやはり数万円単位の買い物であることには変わらず、壊れたら子供の小遣い程度では買えず、それなりの出費を覚悟しなくてはならないことには変わりない。毎月発生するプロバイダー接続料も決して雑誌価格の比ではない。

 紙資源の節約という意味では、何の疑問を持たないが情報の平等性という意味で本当によいのかどうかちょっと答えはまだ出ない。
 



2011年04月08日 JALが定時到着率1位になった理由
JALが定時到着率で2年連続で世界第一位になったようだ。

 まあこの勲章は素晴らしいことだと思うし、かの会社の努力も認めるが、ただ個人的にはこの結果は一航空会社に与えられたものというよりは、日本の乗客に与えられた勲章であるように思えてならない。

 JALの乗客の大体数を占める日本人の搭乗マナーがJALの定時性を支えているという気がするのである。
 何故なら一度でも中国系の航空会社に搭乗した事のある人ならわかると思うが、日本以外の航空会社の乗客と日本の乗客にはそのマナーにおいて明らかに差が有る。
特に中国系の航空会社の搭乗客とJALの搭乗客のマナーは雲泥の差である。

 実際、中国系の航空会社に乗ってみると、大多数を占める中国人乗客たちはなかなかルールを守らない。

 まず、荷物を預け入れる時点で重量オーバーについて指摘されるとしつこく負けろとゴネる姿を多く見かける。
 さらに、搭乗前の買い物に夢中になり、搭乗時間になっても現われず放送や係の人に呼び出される姿は日常茶飯事である。

 また、機内では電子機器の使用を禁じるアナウンスが何度も流れているにも関わらず、携帯電話の使用やiPadでのゲームなどを離陸ギリギリまで続ける。
 そして飛行後に機体が着陸した途端に携帯電話のスイッチが入る音が客室内のあちこちから鳴り響き、ターミナルに着く前にほとんどのシートベルトのロックが外される。
 これらは、航空会社の乗務員がアナウンスしているにも関わらず乗客のほうがルールを守っていない姿であり、これらをみると中国系の航空会社の運行が色んな面で阻害され、定時到着率が低いのは非常に納得がいく。

 これに対して今回日本へ帰国するのに利用したJALの乗客は驚くほどルールに従順だった。
 まず、預け入れる荷物をは重量オーバーにならないよう予め重量を測って調節してから乗り込むので、チェックインカウンターでもめる姿はまずみかけない。

 さらに、搭乗前には余裕を持って搭乗ゲートに集まり、係の人に呼び出されような姿は非常に稀である。
 また、機内に乗り込む前に携帯電話や電子機器のスイッチオフをきちんと確認してから乗り込む姿は多く見かける。

 そして到着後もスイッチを入れていいですよというアナウンスが鳴るまで、携帯電話の起動音はまったく鳴り響かない。
 まあこっそりやる人はいるかもしれないが、少なくともマナーモードで起動されているので音は響かず、つまり携帯起動がルール違反であるという認識はあるようだ。
そしてターミナル到着後も、アナウンスがあるまで立ち上がるどころか、安全ベルトのロックさえ外さず指示を待ってから動き出す。

 日本を飛び出して生活している私から見ると日本人のこういった態度は生真面目すぎるのではないかと思える面もあるのだが、とにかくルールに従って行動する。

 故にこんなルールに従順な日本人が乗客の大多数を占めるJALが定時到着率の世界一になるのは何ら不思議では無いように感じる。
 逆に残念ながらJALがどんなに頑張っても乗客が中国人だらけだったら、絶対に世界一にはならないだろうということも自信を持って言える。(笑)
 もちろん、当たり前のことを当たり前にやるJALの努力も素晴らしいが、これもまた日本人社会全体の生真面目さの表れだと思う。

 こういった意味ではANAも同様に環境があると思うが、先発のナショナルフラッグを支えるJALの乗客のほうがよりトラディッショナルなものに従順で、生真面目さを持った人が多い傾向があると考えられ、僅かにJALに軍配が上がったのだろう。

 ここ数年は経営危機に陥ってしまったJALだが、それもある意味ルールを守りすぎて柔軟性に欠けた律儀さのマイナス面のが出てしまったような気がしており、つまりその律儀さにおいてはなんらブレるところなく現在まで来ているのでその面では非常に信頼に値する。

是非今後も日本の翼を支えていって欲しいものである。








関連ページ交通関連情報

2011年03月31日 まばたきと精神状態の関係
 日本の菅首相が会見の中で瞬きを1分間に100回も行い、精神的にパニック状態になっているのではないかとネット上で話題になっている。
確かに、まばたきが多い人は精神的に落ち着きがないように見え、逆に目が据わっているという言葉があるようにまばたきの少ない人は、精神的にも落ち着いているというか肝が据わった状態になっているように見える。

 まばたきもなくじっと見つめる視線は、非常に意識の強さを感じ、時に迫力さえ感じる。
 逆にまばたきが多ければ、自信の無さを感じこいつ大丈夫なんだろうかと不安を感じる。

 自分に関係ない人がまばたきをして目をぱちくりさせている分にはどうでもよいが、本来は安心感を与えてくれるはずの人、例えば政治家だったり、教師だったり、医師だったりが目を頻繁にぱちくりさせていたら、対峙するこちらはその人の言っていることがどんなに正しくとも非常に不安を感じてしまうことだろう。
 言葉の内容よりそんな落ち着きのない人の判断を信じてよいのだろうかという話になる。

 現実、その表情による判断はかなり正確のようで、菅首相の判断力や抽象的な発言にいろんな批判が集まっている。

 ある記事で読んだが、菅首相が今回の地震発生直後に国民に向かって言っていた「落ち着いてください」という言葉というのは実は行動指示に具体性がなく、言われた国民が何をしていいのかわからないのは無論のこと、言った本人も具体的に何を言えばいいのかわからなくなっている状態であると心理学の専門家が説明していた。

 ああ、それでその後の状況判断の無いといわれた思いつきの視察行動や怒鳴り込みの行動を起こしたのかと妙に納得した。
 逆に枝野官房長官の指示は「無理して家に帰るな」など非常に明確で落ち着いて状況を把握しての発言であったことがよくわかるとしていて、今回対照的な状況だったようだ。

 まあ今回の政治家たちの行動についてここでは多くを言うつもりはないが、菅首相のように目を頻繁にぱちくりさせている人の言葉、政治家だったり教師だったり医者だったりする人の言葉は、精神的に安定した状態から発せられた言葉ではなく信用性にかけるというのが現実のようで、商談やその他の場面においても、話している人の目がどんな状態であるかというのはよく観察したほうがいうのは本当のことのようだ。

目は口ほどにモノを言うとはよくいったものである。


2011年03月05日 浮気な代表者たち
日本の東京都知事選に向けて、他県の知事経験者というか、直前までほぼ現職である知事たちが都知事選への立候補をしようとしている。
 もちろん本人たちにはそれなりの考えがあっての行動なのだと思うし、何ら法令などに反することはないのだと思うが、傍から見るとやはり人としての良識を疑ってしまう。

 特に「捨てられた県民」の立場を考えれば、前回当選した選挙のとき語った「県民のために」などの言葉は何だったのかと考えざるを得ない。彼らを信じて一票を投じた県民の心を思えば、その心中は「浮気のような裏切り」に近いものではないのだろうか?地元のためと耳あたりのよい言葉を振りまきながら、落選したわけでもないのにあっさりその地元を捨ててもっと条件の良いポジションへ鞍替えをしようとする人は例え任期の4年の実績があったとしても、やはり地元からすれば「裏切り者」に他ならない。

 もしK県民やM県民に、都知事選の結果に対する「拒否権」があれば確実に行使したいのではないか。こんな自分の地元を捨てた人がのうのうと他の土地で大きな顔をしているというのは捨てられた側からすれば耐え難いはずなのである。 
 もし元知事側にそんな県民一人ひとりの生活を支え、そして人に支えられているという自覚があればこんな安易な行動は取れないと思うのであるが、まあ実際に行動できてしまうということは、立候補する本人は結局は県民のことを考えているのではなく自分のことしか考えていないということであろう。 

 つまりは彼らが地元の知事選で語った「県民のために」という言葉も都知事選へのステップ、或いはその上を目指すための「方便」であった可能性が高いのである。故に今回目指す都知事というポジションも、彼らにとっては単なるステップアップのための階段であると考えている可能性は捨てきれず、今回彼らが口に出すであろう「都民のために」という言葉もまた当選のための「方便」である可能性が高いといわざるを得ない。
 こんな名誉欲に駆られた「浮気性のヨソモノ」を選挙に簡単に通してしまうほど、東京都民の良識は駄目になっていないと信じたいが、選挙は良識が通用しないのが選挙であったりもするのでなかなか未来は明るくならないのかもしれない。


2011年03月02日 広告塔戦略
サッカーの元日本代表監督のトルシエ氏が深センのクラブチームの監督に就任したとのニュースが流れた。
当のトルシエ氏は、チームの実力を鍛え上げるために呼ばれたつもりでオファーを受け入れたと思われるが、クラブ側にどこまで本気でチームを強くする気があるのか少々疑わしいようなニュースが伝わっている。
 まあ、一流のシェフさえ連れてくればレストランがオープンできると思っているような単純思考をする人の多いこの中国であるからゆえ、監督さえ優秀ならば成績がすぐ上がるとクラブのオーナーは思っているのかも知れないし、世界のサッカー事情やレベルを全くわかってなくてただ単に有名な彼を呼んだとも考えられる。
 しかし実際は彼を呼んだ一番大きな理由は広告塔の役割りを彼に持ってもらうということであろうことは想像に難くない。
トルシエ氏のようなアジアでそこそこ有名な監督であれば、チームが強くならなくてもいるだけで十分に広告塔の価値はある。
 彼がいるだけで、日本からの取材は確実に増えるだろうし、テレビ中継も入って放映権料なども収入も増えるかもしれない。そうすればクラブの財政事情もよくなり本当にいい選手も獲れ、実際にチームも強くなるかも知れない。
 そういう広告塔の意味として投資したのが本当のところなのではないか?


 まあ今回の件に限らず、社会には有名人を広告塔につかったり、あるいは仕立て上げたりして所属する団体のイメージを上げようとする活動は少なからず行なわれている。
しかもそのバックの組織の影響力によって、能力などに大して差が無かったり、明らかに実力不足であるにも関わらず「恣意的な持ち上げ」が行なわれ、スター扱いされている人も少なくない。
 某宗教団体の有名人の活躍や、オリンピック代表選考で明らかに実力重視ではない選考が行なわれるのはそのバックの意向が強く働いていると昔から言われていた。
日本のプロ野球でさえ、人気を考慮して選手起用が行なわれる場合もあるのは周知の事実である。メジャーリーグでさえ日本人を獲る理由の何割かにそういった事情が含まれている場合がある。全てがそうではないが、広告塔への投資という意向は少なからず働いているであろう。
 本人も自分の実力不足を承知で広告塔の役割りに専念している場合ならば仕方ないが、今回のトルシエ氏のように自分の実力が買われたのだと勘違いしてピエロになってしまう場合はちょっと気の毒でもある。
 まあ逆に言えばこの「知名度」というのは日本の選挙なんかを見ればわかるように実力以上に価値があるともいえるのだが、きちんと努力している人から見ればやはり実力がきちんと評価されていない不平等感は残る。


 話を中国に戻せば、私から見れば中国そのものが広告塔戦略の塊のような国である。
 上海に代表される大都市のビル群や、新幹線の速度、果ては宇宙開発のような派手な広告塔を前面に押し出し世界最先端をPRするが、現実には国土と国民の大半は何十年も変わっていないような田舎暮らしをまだ続けている。上海でさえ、都心から車で1時間も離れればとても先進国とは呼べないような前近代的な生活風景が広がる。
 そんな風景と上海の都心の風景とのギャップに「ハリボテ」とか「広告塔」という言葉を思い出さざるを得ないのが今の中国だ。

 ビジネスの上でも大きな風呂敷を広げたり、ビッグネームの名前を出して注目を集めておいて、現実には大した中身がないという場合が良くある。
 最近ようやくそんな中国のビジネスの特質に慣れてきたが、派手なPRをするものほど中身がないのはどうやら世界共通のようである。
まあそんな広告塔に騙されないようにすることはもとより、上海で働いているからといって中国人に広告塔に使われて恥をかく日本人にならないよう気をつけたいとも思う。





2011年01月31日 「スポック博士の育児書」と「日本経済」
 最近ラジオで「スポック博士の育児書」なるものが人間の人格形成に大きな悪影響を与えているという考え方が出ているとの話を耳にした。
 この「スポック博士の育児書」なる書はアメリカの小児科医スポック博士が1946年に出した本であるが、子供が泣いても放っておけとか、母乳は決まった時間に与えなさいとか、離乳食を早めに始めなさいとかかつての育児の伝統概念を覆す内容で大ベストラーであり続けている本とのことである。
 日本でも昭和41年に翻訳され、昭和55年からは母子手帳にも記載されているという。

 まあ子供を育てたことがある人なら、誰でも目を通したり耳にしている書籍であるらしいのだが、子供を育てたことのない私にはなじみの薄い本である。
 そんな有名な本だが、最近になって多くの人がこの本を否定し始めているという。

 ある人によるとこの本に基づいて育てられた子供はどうも人格の面で欠けている面があり、異常行動をとったり性格に問題が表れやすいのだそうだ。はたまた栄養面できちんとした正しい段階を踏まないで育てられるのでアトピーなど健康上の問題が表れやすいとしている。

 私はこの件の因果関係について、きちんとした調査データを持たないので、積極的な肯定はできないのだが、これらの意見は日本の社会現象の歴史推移と照らし合せてみると何となく腑に落ちる面がある。

 例えば日本の中学校・高校で校内暴力が顕在化したのは1970年代後半から1980年代
とされているが、ちょうどスポック博士の育児書が翻訳され読み始められた時期に生まれた子供が中高生になった時期と一致する。つまり、スポック博士の育児書で育てられた子供が問題を起こしていたのではないかという仮説が成り立つ。


 その後日本社会は子供の成長に関する問題や、オタク、アダルトチルドレン、引きこもり、ニートなど、精神的に未熟で大人に成りきれない人たちをあらわす社会問題用語が次々生まれている。キレる17歳などという言葉もあった。どれも社会コミュニケーションの面で問題があるとされている事象だ。
 さらに1990年代後半には子育てができず子供を虐待する親や、モンスターペアレンツなどの言葉が聞かれ、学級崩壊なども発生するようになった。これはスポック博士の育児書で育てられた子供が親になりはじめた時期と一致する。
 1980年代頃からアトピー患者の増加など健康的な被害も多く現れている事象はよく耳にする。

 これらの原因として一般的には戦後の急激な経済成長や核家族化問題、化学物質などの食料事情の変化などが言われているが、時代的タイミングから言えばスポック博士の育児書によって育てられた子供が、人格や健康に悪影響を受けているのではないかという疑いの面も否定しきれない。
 上述の人によると母子手帳にスポック博士の育児書が記載されてから2年後の昭和57年からアトピー患者が急増しているという。キレる17歳も実はこの時期に生まれている。

 そういえば自分の周囲にいたアトピーの人は性格がかなり変わっていた人が多いような気がする。この話を聴くまではその人の個性や遺伝的体質の問題だと思っていたが、実はスポック博士の育児書の影響なのではないかと思えば納得できるような面もある。確かにその人の親は、この育児書を熱心に読んでいたとされるインテリ層のはずだった。決め付けはよくないが可能性はある気がする。

 そしてこの育児書普及の影響があるのかないのかわからないが、日本そのものは現在その社会的病理、精神的病理によって若年層の活力が失われている。さらに時を同じくして現在の日本経済的は長期に停滞している。つまり本来社会を支えるべき日本の若者に元気がないので経済が停滞していると言えなくもない。

 こうやって三段論法で考えていくと、ひょっとするとスポック博士の育児書が日本の若者を、あるいは日本人を駄目にしそして日本経済を駄目にした要因であると言える可能性もある。


 まあ日本経済との因果関係に関しては大いなる研究が必要だが、一つだけこの育児書に対して、というか育児に関して確実に言えることがある。

 それは、育児は人の一生を決めるものであり実験や検証がなかなか難しいことであるが故に、何百年、何千年と培われてきた先人たちの伝統的な知恵を目新しさだけでおいそれと変えてはならないということであろう。つまり伝統を否定して新しい考え方を取り入れることには余程慎重にならなくてはならない。
 試験管の中の化学実験とは違い、育児は一瞬一瞬が取り返しのつかない人間の人生に対する働きかけであり、きちんとした実証なく伝統を否定してまで新しい育児法を実施するというのは無謀な冒険としか言えないのである。
 そういった意味で言えば既にスポック博士の育児書は否定するに値すると言えるのである。

 まあ、これらの話を総合していくと日本経済復活のためには実はまず母子手帳の見直しが必要なのではないか?そういう結論に帰結してしまうが果たしてどうだろうか?そんな今回の話題である。

 






プロフィール

1971年千葉生まれ。大学時代は水戸で過ごす。
高校時代テレビで見た高泉淳子に影響され演劇の世界に踏み入れ、以後アマチュア劇団で舞台音響専門として過ごす。就職は一般企業にするものの、趣味が高じて休日にブライダルで音響活動を続け500組近くのカップルを見届けてしまう。
自身は無類のクラシック音楽好きで日本時代は年間120本以上のコンサートに通った時期もある。
 また旅好きでもあり、日本47都道府県はもとよりイギリス、フランス、スペインなど舞台を求めて世界を旅した。
 数年前一つの恋がきっかけで中国語を学び始め、上海に渡ってきた。
まったくの新天地で日々悪戦苦闘中。

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