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衛生観念の格差

先日ニュースで流れていた偽の羊肉事件の記事を読んで、今回ばかりはさすがにショックが大きかった気がする。
 特に、ネット上に上がっていたネズミの写真のインパクトが強く少々トラウマ気味になっている。

写真はイメージ

写真はイメージ

 まあ私自身は、普段から衛生観念についてそんなに厳格ではないためローカルの食堂で食事をすることなどはそれほど抵抗は無く、実はかつてあった地溝油の事件などについてもそれほど強いショックを受けてはいなかった。

 地溝油には発ガン物質が含まれているという噂もあったが、中国でなくても食材に発ガン物資の混入を100%避けるのは難しく、神経質に気を付けたところで限界があり、見た目の調理上では分からないということで気にすることもしなかった。

 それに、上海の街に住んでいると、少なくとも現地の中流階層以上の人は日本人にほぼ近い衛生観念を持っており、そういう人たちの中で生活している限りではそれほど食生活に不安を感じなかったのである。

 ところがそこへ今回の事件である。

 今回の偽羊肉事件の発覚には上海市民たちも驚きは隠せないようで、連日ニュースで紹介され、日常の食生活に様々な不安を巻き起こしている。

 ただテレビの報道などを見ていると、上海市民の驚きとは裏腹にこういった事件を起こしている地方の人々にはどうも悪いことをやっているという感覚に乏しいような雰囲気が伝わってくる。

 寧ろ、キツネやタヌキ、ネズミの肉から高級な羊肉モドキを作れるようになったのは発明として喜んでいる様なフシさえある。

 さらに添加物についても万が一体調が悪くなっても都会は医療が発達しているから大丈夫なんでしょ?といった開き直りの感覚もあるように見える。

 福建で起きた病死豚肉の横流し事件も、普段は自分のところで豚肉を食えない畜産農家は豚が病死すると肉が食べられると喜ぶような衛生観念土壌があり、それを法律で危ないからと規制したところで、結局は勿体ないとして食べたり売り裁いたりしたのが今回の事件である。

 特にこの事件では公務員に該当するような立場の人が事件を起こしており、公務員であっても人としてのモラルは、現地レベルということになるようだ。

 最近になってようやく上海や北京などの都会のモラルなどは世界標準に近づいてきたのかなという印象はあるが、一歩都心部を離れれば世界標準には程遠い常識がまかり通っているのがこの国の実情である。

 まあことほど左様に中国という国の中には、経済格差と比例するように衛生観念の格差やその他の考え方の格差があり、それが同じ国の中で一つの市場として繋がっているところにこの国の怖さがある。



談志の紺屋高尾

 「紺屋高尾」というのは落語の有名な演目の一つで、私はこの噺が結構好きである。

 もっとも私がこの噺を知ったのは「幾世餅」という古今亭志ん朝さんがやっていた演目がきっかけであり、最初に好きになったのは「紺屋高尾」だったわけではない。

 この「紺屋高尾」と「幾世餅」は若干の設定の違いはあるものの、ほぼ大筋では同じストーリーで、私は「幾世餅」の演目名を思い出すのにググっていたら「紺屋高尾」にたどり着いた次第で、実はこちらのほうがメジャーな演目であることを知ったようないきさつとなっている。

 この噺の大まかな流れとしては、江戸の若い職人が吉原の位の高い花魁に恋をして、一心不乱に仕事に精を出し金をためて会いに行くというのがストーリーとなっていて、身分を偽って花魁に会った職人が別れ際に自分の身分を告白する場面が山場となっている。

 こういう古典落語の世界を聞くと、江戸時代というのは今よりかなり性の文化が開放的であることが分かり、今では男性が女性の前で吉原など岡場所の話をすることはタブーに近いが、話の中では主人公の務める店のおかみさんが、吉原を容認しているような会話をするなど、独身者が吉原に通うことには寛容だったことが分かる。

 また高貴な商家の旦那が吉原の遊女を身請けするという話も数多くあり、吉原にいたという立場がそれほど蔑まれていないような雰囲気がある。

 どうやら日本の性の観念ががらっと変わったのは明治維新がきっかけで、それ以前はかなりおおらかだったというのが落語の世界から見て取れる。

柴又帝釈天

柴又帝釈天

 この明治維新の変化は、今の中国を見ていると実は同じような観念の変化が起きているのではないかと感じるところもないではない。

 さて話を元に戻すと、今回一昨年に亡くなった立川談志さんの「紺屋高尾」の高座をYOUTUBEで観た。

 本来私は談志さんの落語はあまり聴かないが、たまたまこの紺屋高尾の収録がYOUTUBEに載っていたのを見つけて観ることにした。

 フジテレビでやっていた「落語のピン」の最終回の収録で、1993年当時のもののようだから今から20年前のまだかなり元気だったころの高座である。

 談志さんの落語は聴いてみると、決して立て板に水というほどテンポがよいわけではなく、それどころかところどころ脱線があって時々話が止まるのだが、それが妙なアクセントを持って不思議な魅力を放っている。

 そして今回の噺の最大の山場である職人が花魁に嘘を告白するシーンの語りは、何とも惹きつけられるものがあり、ホロッと涙を誘うほどに職人の真剣な思いが伝わってくる語りだった。

 私はどうもこういった一途な思いを持つ人の心に弱く涙せずにはいられない。

 そういった一途さを見事に演じてくれた談志さんの紺屋高尾であり、久しぶりにいい噺を聞いたな、そういった印象を受ける高座だった。