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残業時間だけでは測れず、実は出張も隠れた過労死の要因かも

 日本のニュースで電通の新入社員が過労自殺をしたことの労災認定されたと報道されている。

 労基署の認定では一ヶ月の残業時間が105時間と認定されたということである。

 しかし、私はこのニュースを聞いて
 「はて、105時間の残業ってそれほど多いわけじゃないな」
と感じたのである。

 もちろん105時間という時間外労働時間は決して少ない数字ではないが、この残業時間数であれば過労自殺をするほどの数字ではないように思われたからである。

 実は私も日本時代に100時間以上の残業時間は経験したことがあり、確かに楽ではないが、100時間程度の時間外労働だけでは死にたいと思い詰める程のレベルにはならなかったのである。

 この時間外100時間という時間、一見膨大に見えるこの数字を冷静に分解すると、例えば毎日10時間の労働を土日も休まず30日働いても合計300時間であり、そこから仮に月間の所定労働時間を176時間(22日X8時間)として差し引くと、124時間の時間外労働時間となる。

 まあ確かに1ヶ月間休み無しの勤務体制は精神的に楽ではないが、1日10時間の勤務ならば睡眠時間が大幅に削られるほど厳しい状況ではないといえる。

 つまり、月間の残業時間が100時間程度であれば、睡眠時間が大幅に削られるほどの過酷な労働状況とは言いきれないのである。

 しかし、今回発生した過労自殺のニュースを細かく読んでいくと、本人がSNSなどで睡眠時間が2時間とか、過酷な睡眠不足に陥っていることを吐露しており、105時間の残業認定だけでは説明がつかない状況で有ったことがわかる。

 では何が彼女の睡眠時間をそこまで削らさせてしまったのだろうか?

 まず考えられるのがサービス残業の可能性である。

 つまり表向きは100時間の残業時間と言いながら、実態はそれ以上の長時間労働が課されており、その分が認定されていない可能性があるというものである。
 しかし、この点に関して言えば今回は労基署が105時間という時間外労働認定をしており、少なくとも勤務時間に関しては105時間という時間外認定はそれほど不正確なものではないと推定される。

 ただしここには盲点があり、法律上は労働時間に認定されない業務環境が有った可能性が推測できる。

 どういうことかと言えば、実質的には労働をしながらも、法律的には労働時間に認定されない要素が労働環境には存在するからである。

 その第一の可能性は自宅持ち帰り作業の存在である。

 報道では彼女はインターネット広告の担当とのことで、実際の労働にあたる制作作業は会社でやるにしても、企画書作成や他社研究は自宅でやっていたということは十分推測できる。

 私もネット作業が比較的多いから理解できるのだが、ネットは24時間つながってしまうために、起きていられる限り際限なく作業が出来てしまうのであって、会社から帰っても仕事が出来てしまうのである。
 故に労働時間に組み込まれない半強制的な長時間の自宅労働が発生してしまっていた可能性が考えられる。

画像はイメージ

画像はイメージ

 第二に、頻繁な出張という要因が考えられる。

 実はこれが残業時間では測れない過労死(自殺)の隠れた要因としてとても怖いのだが、今回のケースに限らず出張は日本の労働者環境における隠れた過労要因であるという気がするからである。

 どういうことかと言えば、世の中の大半の企業において出張の移動時間というのは労働時間に認定されていないケースがほとんどであり、当然のことながら時間外労働時間には算入されないからである。

 例えば、朝5時に起きて7時の飛行機で東京から地方に飛び、現地で9時から20時まで働いて21時の飛行機で戻り東京に23時に到着し、自宅へ深夜1時に帰宅し3時に就寝するような業務があったとする。
 すると実質22時間ほど会社のために稼働しているにも関わらず、労働時間認定は10時間(昼休みを除く)で、そのうち残業認定はたった2時間程度という結果になるのである。

 労働者としては出発から帰宅までを労働時間として認めてもらいたいのが心情であるが、通常の通勤時間は時間外労働として認めてもらえないように、出張の移動時間は時間外労働して認めてもらえないのが通例なのである。

 この理屈で言えば、極端な話として残業時間がゼロであったとしても毎日の出張だけで過労死する可能性があると言えるのである。

 それ故に、例えば今回の事件のケースにおいても認定された時間外労働は105時間であったが、それ以外に出張などで移動時間で消費されていた時間が大量に隠れている可能性もあるのである。
 電通のような多忙な会社であればなおのこと度重なる出張は十分考えられ、それが彼女の睡眠時間を削ってしまった可能性は十分に有る。

 商社に勤める私の友人も実は同様の理由で苦しんでおり、先日も出張の際に台風の影響で空港で足止めを食らって出張先のホテル到着が明け方近くになったにも関わらず、会社は残業認定してくれなかったとのことである。

 その友人は度々の出張にも関わらず実労働時間は多くないので残業代はつかず、逆に睡眠時間がかなり削られ苦しんでおり、体調も崩し気味だと嘆いていた。
 まさに今回のケースに通じるものがある。

 ちなみに私がかつて100時間残業を経験したときは1日中オフィスにおり、通勤以外の出張などの移動時間消費はなく、純粋な残業時間認定であったため、大幅な睡眠不足にはならず、何とか一ヶ月乗り切ったのである。

 つまり比較して申し訳ないが、かつての私と今回自殺された彼女は時間外労働で言えば同じ100時間という単位になるが、その数字だけでは説明できない業務環境が彼女に有ったのだろうと私には推測できるのである。

 今の日本の労働行政は、「過労死防止白書」を見ても総労働時間や時間外労働時間の管理ばかりに目がいっているが、実はその数字に現れない出張などの隠れた労働要因が労働者を追い詰めている可能性があることに気づいていない気がする。

 今回の過労自殺認定報道も105時間の時間外認定で終わらせず、出来れば労働者の労働環境の分析にもっと深く切り込んで頂きたいという気がするのである。

  故人のご冥福をお祈りします。

体罰の事件の話

 日本で体罰が原因で生徒が自殺したとされる事件について、主に体罰の是非について意見が真っ二つに分かれた論争となっている。

 今回の当事者の行なった行為が暴力なのか、体罰なのか、指導なのか様々な見解が分かれていることであり、特に体罰絶対反対を主張する人から圧倒的な非難の声が上がっている。

 恐らく各人の中でも体罰と言われる行為からイメージされる行為の具体的な中身に相当の差異があり、絶対反対から一部容認、必要論者までそれぞれ実は思い描いているものが相当違うのではないかという気がしている。

 また実際経験してきた人生によってもこの意見は相当違うであろう。

 まあ体罰が必要か否かを論じる議論はまず横において考えたいのだが、人が成長する過程において忍耐力や精神力が必要なのは言わずもがなで、大して苦労せず蝶よ花よと育てられたお坊ちゃんお嬢ちゃんが、社会で打たれ弱いのは当然の話となっている。

 ましてやスポーツを行う者が、お遊びスポーツクラブではなく真剣に日本のTOPや世界のTOPを目指したアスリートを目指すためには、人並み外れた精神力や忍耐力が必要で、その成長過程で相当自分を追い込んでいかないととてもTOPになんぞたどり着けないのは誰もが知るところだと思う。

 このアスリートたちが自分を鍛え上げるための手段の中で、自ら厳しい課題を自分に課して行くのが大方のアスリートたちのやり方でもある。

 自分ひとりで厳しい状況を作れればそれに越したことはないが、アスリートたちは自らの意思が非常に弱いことをよく知っており、他人が作ってくれる厳しさに身をゆだねる場合が多々ある。

 今回自殺した生徒の子も、恐らく体罰を振るっていたとされる顧問が日常からどのような指導方法をとっていたか1年生の時から知っていたはずで、それにも関わらず彼は自らキャプテンに自ら志願してなったと聞く。

 恐らく彼なりにアスリートとしての自分を追いつめていく方法をとったのだと思われる。

 もしかすると同級生を傷つけないための彼なりの正義感で犠牲の意味で代表になったのかもしれないし、その真相は私には分からない。

 でも、自分を追いつめた場所が自分が想像していたより厳しい場所だったのか、体罰の痛みだけが残って成長出来ない自分に苦しんでいたのか、彼にしか本当の真相が分からないが、結局自ら命を絶つ選択肢を取ってしまった。

 世間では今回は体罰が彼を自殺に追い詰めた直接の原因であるという一辺倒の論調で体罰そのものがやり玉に挙げられているが、今回のケースでは体罰が無くてもやはり同様のケースを招いていた可能性があるような気がしている。

 残念ながら体罰であろうとなかろうと、厳しかったり苦しかったりすることを乗り越えられないとなかなか精神的に強くなれないのは事実で、どんなに理論的科学的な事を学ぼうとも、最後にはそれをやり遂げる精神力の勝負になってくるため、スポーツの指導者は基本として甘い顔をして教え子を甘やかすことはしないのが通例である。

 アスリートが甘い考えを持ってスポーツに臨んでも何らいい結果をもたらさないからである。

 そして彼らがなぜ体罰を与えるのかというと、人は痛みからアドレナリンを分泌するからであり、本来は防衛本能の為のアドレナリンであるが同時にスポーツ選手に必要な闘争本能をもたらしてくれると考え、体罰は体育系の人々に容認されてきたのだと思う。

 闘争本能を必要としない我々の生活からすれば、アドレナリンのための体罰なんかとんでもないとなるが、限界を追及する彼らからすればそれほど違和感のない行為なのである。
 故にこうした実態が露見しても受験志願者が減らないのはそういったことを感じているからだと思われる。

 今回の体罰論争がどこへ決着するか分からないが、例え今後体罰が一切禁止されることになったとしても、アスリートたちが自らを追い込む手段を探す行為は変わらず、やはり自らの課した課題の重さに迷い苦しむ人が出て来るのはいつの時代も変わらないんじゃないか、そんな気がしている。

 故人の御冥福をお祈りします。

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